院長ブログ

2019.9.5

医者がベンツに乗るというのは、なんだか「いかにも」という感じだけど、研修医時代、同期がベンツを買った(中古だけど)。
「いやぁ、買ってよかった。乗り心地が断然違う。『いい女は一番最後にとっておけ、ベンツは一番最後に乗れ』って格言があるけど、この意味がわかったよ。
いい女のよさを知ってしまうと、つまらない女では満足できなくなる。同様に、一度ベンツのよさを実感してしまうと、もう他の車には乗れないな。
クラクション鳴らされたりパッシングされたりすることもなくなった。運転することがストレスどころか、何よりの楽しみになった。いい車は、やっぱりいい」

クラクションというのは、本来危険を知らせるための警告音に過ぎない。だからどの車が相手であれ、鳴らす必要があればためらいなく鳴らすべきものだ。しかし、車を運転する人なら誰でも知っているように、クラクションにはそれ以上の意味合いがある。
1968年と古いけどこんな論文がある。
『イライラするけどクラクションを鳴らすことを遠慮してしまう状態について』
https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00224545.1968.9933615
研究者は、「信号が青なのに前の車が全然進まない」という状況を作った。
その際、前の車がボロい小型車である場合と、新型の大きい高級車である場合で、後続の先頭車がどのように反応するか、比較した。
結果、前者の場合は思いっきりクラクション鳴らすのに、後者の場合はクラクションを鳴らさずじっとしている可能性が有意に高かった。

まぁ当然だよな。ナンバーが「神戸7777」とかのベンツで運転席の人がパンチパーマの紳士だったら、僕なら1時間でも文句なくじっとしてるんちゃうかな笑

県外に住んでいた頃は、車は必需品だった。
毎日の通院にも買い物にも車で行っていたから、車なしでは生活が成り立たない。
でも、神戸に住み始めて以後、車は不要になった。だいたいのところには電車で行けるし、近距離ならタクシーが使い勝手がいい。駐車場の値段の高さを考えると、車は不要どころか、むしろ負債だ。

そう、車は負債そのものだ。
車を持たなくなって、車がいかに「金食い虫」か、ということに気付いた。
自動車税とかの税金、保険代、車検代、ガソリン代、駐車場代など、維持費がすごい。
僕の場合は安い軽自動車だったからまだしも、高級外車なんかに乗っていれば月々のローンの返済もあって、ウンザリしていたと思う。
いい女との付き合いに金がかかるのと同じだな^^;

近い将来、車は私有からシェアの時代になるといわれている。
これは未来予測というよりすでに現実で、町を歩いているとあちこちの駐車場にカーシェア用の車を見かける。
カーシェアがもっと広く普及すれば、どうなるだろう。
さらに自動運転が一般的になって、「人間が車を運転する」という行為自体が陳腐化すれば、どうなるだろう。
そうなった場合に、ステータスシンボルとしての高級車の存在意義は?
「昔はなぁ、医者になってベンツを乗り回すのがカッコいいって時代があったんだよ」とつぶやいて、「何すかそれ、わざわざ自分の車持ってるとか、超ダサくないですか」って若者に笑われる日が来るのかもしれない。

入れ歯

2019.9.3

引退したプロ棋士の加藤一二三(ひふみん)が、こんなことを言っていた。
「十五年ほど前に入れ歯をした。すると、さっぱり手が読めなくなった。頭の回転が鈍り、棋士人生で最大の危機に陥った」

入れ歯をすれば、固いものもちゃんと噛めるようになる。咀嚼は消化の第一段階で、栄養吸収に必須の行為だ。
そういう実用性だけではなくて、審美的な意味でも、この人は入れ歯しといたほうがいいと思うのね^^;

でもこの人は単なる「歯の悪い老人」ではなく、まず何よりも、勝負師なんだな。
その勝負師の直感が告げていた。「こんなもん口に入れてたら、勝てる将棋も勝てなくなってしまう」と。
プロ棋士は盤上の局面から10手も20手も先を読む。普通の人にはマネのできない芸当で、そういうある種の特殊能力を持った人だけに、体調の変化にも極めて敏感なのだろう。

入れ歯をすれば脳の機能が低下するのだろうか。
調べてみたが、そういう論文は見当たらなかった。
むしろ逆に、入れ歯をすることで認知機能が改善した、という論文ならたくさんあった。
たとえばこんなの。
https://www.researchgate.net/publication/322680926_Effect_of_Complete_Denture_on_Memory_and_Depression_Status_in_Elderly_Patients
「総入れ歯の着用によって記憶力が向上したが、うつ病の改善には効果がなかった」という主旨。
咀嚼は、顔や顎の筋肉運動そのもので、脳の血流にも影響するだろう。また、しっかり咀嚼することで栄養の吸収も高まる。
その影響で、記憶力が向上したのではないかと推測できる。

残念ながら、ひふみんにはそういう恩恵がなかった。むしろ、入れ歯のせいで思考力がダメになってしまった。なぜだろう。
入れ歯が合わなかったせいかな。腕の悪い歯医者のせいだろうか。あれぐらいの有名人で経済的にも裕福な人だから、腕のいい歯医者にかかることはすぐできるはずなのにな。
しかし、ひふみん含め芸術家タイプの人は、入れ歯を忌避することが多いようだ。
ひふみんはこんなことを言っている。
「あるバイオリニストの体験記に“義歯を入れたら演奏ができなくなったので取ってもらった”と書いてあったので、自分も前歯を取ってもらったら、調子が戻った」
実際、こんな論文がある。
『音楽家が経験する口腔顔面の特異的問題』
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/pdf/10.1111/j.1834-7819.2002.tb00296.x
結論部分に、こうある。
「プロの音楽家は歯医者に行くのをためらうことが多い。というのは、ほとんどの歯医者は、音楽家の特別な必要性に全然配慮していないからだ。
楽器が口腔顔面の構造にどのような影響を与えるかを理解し、かつ、音楽家にはどのような特有の問題があるかに気付いている歯科医であれば、予防のためのアドバイスや有益な治療が提供できる」
たとえばバイオリンは顎や首で固定して演奏するわけだから、歯科治療に際してもそういう職業上の特質が考慮されるべきだけど、普通の歯医者に行っても、そんなこと、当然気を遣ってくれない。
楽器の奏でる音が、顎や首の骨を伝って、耳に届く。そのプロセスで、入れ歯という人工物があると、微妙に感覚の狂いが生じるのかもしれない。
芸術家は、自分の健康よりも優先することがある。自分の作品の美しさだ。
入れ歯のせいで自分の理想の演奏ができないとなれば、芸術家にとってこんなに悲しいことはない。
ひふみんもそういう意味では芸術家なんだと思う。
プロ棋士の棋譜は後世に残る。無様な棋譜をさらすくらいなら、入れ歯なんていらない、ということだろう。

プロ棋士は、対局中にお菓子を食べることが多い。
特にひふみんの甘いもの好きは有名で、ある対局の際、板チョコを8枚も食べたことがあるという。
入れ歯よりも何よりも、まずは甘いものを控えるのが第一だと思うんだけど、そんな不摂生をしながらも(そして歯がボロボロになりながらも)無茶苦茶に勝負強いところがこの人の魅力なんだな。
ここまで突き抜けた天才には、僕も何も言いません^^;

テセウスの船

2019.8.31

古代ギリシアに、「テセウスの船」という話がある。
船に乗ったテセウスが、アテネの若者とともにクレタ島から帰還した。「すばらしい航海であった。無事帰還できたことを祝し、この船を後の時代までも保存しよう」ということになった。
しかし、木造船である。木材が朽ちていく自然の経過にはあらがえない。パーツがダメになっていくたびに、その箇所を新たな木材で置き換える。
やがて、その船のオリジナルのパーツはすっかりなくなってしまった。
さて、すべてのパーツが取り替えられたこの船は、テセウスが後代まで保存したいと願った船だと言えるだろうか。

これは古代ギリシアで議論されていた有名なパラドックスのひとつだ。
要するに、問題は、次のように一般化される。
「ある物事の構成要素がすべて置き換えられたとき、それはもともとあったものと同じものと言えるだろうか」

子供の頃、巨人ファンだった。
藤田監督のもと、桑田や斎藤が投げて試合を作り、バットでは川相や篠塚の職人芸、勝負強いクロマティが見ものだった。
それが「僕の好きな巨人」だとすると、それは永遠ではない。
次第に若手が出てきて、ベテランは去って行く。数年もすればメンバーは大幅に入れ替わっている。
「僕の好きな巨人」はどこへ?というかそもそも、巨人を巨人たらしめている核は、一体何なのか?
黒とオレンジを基調としたユニホーム?読売新聞がバックにいること?あるいは、ナベツネ?笑

車を買った。しかし、買っておきながらこんなことを言うのもあれだけど、気に入らない。
車体、エンジン、タイヤ、内装、もう、この車のすべてが、気に入らない(←そんな車、なんで買うねん笑)。
よし、総とっかえだ!パーツを全部、グレードアップしてやろう。
あくまで思考実験だけど、車をそういうふうに改造したとする。オリジナルの車からパーツをすっかり入れ替えた車は、もともとの車と同じ、と言えるだろうか。
この例には一応の「答え」がある。
日本で販売される車は、フレームに車台番号が打刻されている。つまり、何を取り替えたとしても、フレームだけは取り替えることができない。
それをすれば、もはやグレードアップではなくて、法律上、別の車、ということになる。
車に関しては、そのあたりがアイデンティティの核心ということだな。

僕らの体は、日々変わっている。古い細胞が、新しい細胞に取って代わられていく。
消化管粘膜は数日で、赤血球は数ヶ月で、骨は数年ですっかり入れ替わる。
そう、僕らの体は、「テセウスの船」そのものなんだ。
10年も経てば、細胞的な意味では、僕らはまったくの別人になっている。
でも、「10年前に契約した俺と今の俺は、まったくの別人だから」と家のローンを踏み倒すことはできない^^;
個人のアイデンティティを保証するものは、一体何なのか?
僕が僕であることの核心は?

記憶、というのは大きなファクターだと思う。
幼い頃に母に抱っこされた記憶。小学校の入学式の記憶。学校の友人の記憶。
記憶が過去を支えていて、今のアイデンティティを保つ助けになっている。
記憶はどこにあるのか?
脳にある、というのが現代医学の教えるところである。

「脳こそが自我の核心」とする現代医学と対照的に、古代ギリシアでは、プラトンやアリストテレスをはじめとして「精神の座は心臓にある」と考える哲学者がいた。
心が、心臓にある?
現代の考えになじんでいる僕らには、的外れな仮説に思えるが、どうもあながち間違いとは言えないようだ。
近年医療技術が進み、心臓移植が行われるようになった。心臓移植を受けた患者のなかに、ときどき奇妙な現象が見られる。
クレア・シルビアさんは、バイク事故で死亡した18歳の男性から心臓移植を受けた。手術以後、彼女は無性にビールとチキンナゲットを欲するようになった。
さらに彼女は、「ティム.L」という名前の男についての夢をしょっちゅう見るようになった。
彼女は自分の異変を自覚した。明らかにおかしい。心臓をくれた男性の記憶が、自分のなかに入り込んだのではないか。彼女は思い立って、死亡記事を検索した。
そしてついに、バイク事故で死亡したティムの記事を見つけた。ビールもチキンナゲットも、ティムの大好物だったとわかった。
シルビアさん、自身の体験は世に知らしめる価値があると考え、一冊の本にまとめた。”A Change of Heart: A Memoir”(Claire Sylvia著)
https://www.medicaldaily.com/can-organ-transplant-change-recipients-personality-cell-memory-theory-affirms-yes-247498

脳に記憶の貯蔵庫がある、というのはあくまで仮説である。
それ以外の考え方、たとえば「何らかの形で心臓とか他の臓器に記憶が保持される可能性」が、除外されているわけではない。
心臓移植を受けた患者を対象にした研究がある。
『心臓を取り替えると性格が変わるのか?47人の心臓移植患者に対する後ろ向き研究』
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/1299456
要約
心臓移植というのは、機能しなくなった心臓を単に置き換えるだけの話ではない。心臓は、愛、感情、そして個性の象徴と目されることがしばしばある。
心臓移植を受けた患者が術後に性格の変化を感じているかどうかについて考察するため、2年間にウィーンで移植を受けた患者47人に聞き取り調査を行なった。
結果、15%が性格が大幅に変わったと述べた。しかしそれは「移植した心臓の影響ではなく、心臓移植を受けるという、生死に関わるオペを受けたことによるものだ」と彼らはいう。
6%は、心臓移植の影響ではっきり性格が変わったと語った。「心臓移植を受けたことで、ドナーの感覚や感情になっている」と彼らは感じていた。
これらの心臓移植患者には、「心臓は感情の座であり、個性を形作る」とする心臓についての思い込みが影響したものと思われる。

「記憶は脳に貯蔵されるのだ」という、ただそれだけでは、説明のつかない報告が確かにある。
こういうときこそ、科学が進歩するチャンスだ。
心臓にも記憶を保持する何らかのメカニズムがあるのかもしれないし、細胞自体に物事を記憶する性質があるのかもしれない。
こういう仮説を立て、真偽を検証する、というのが科学的な態度であって、説明のつかない事象を「定説とはずれた単なるオカルト」と一蹴してしまっては、科学の進歩はないだろう。
しかし心臓移植のレシピエントが、ドナーの記憶や感情まで受け取ることになる、というのはおもしろいな。
いかにも少女マンガにありそうな設定で、すでにそういうマンガとかありそうだな^^;

バイリンガル

2019.8.30

バイリンガルだったらな、と思うことがある。
英語は、それなりにできるほうではある。英語文献を読むのに別段の苦労はないし、外国に行っても買い物するぐらいなら困らない。
でも英会話となれば、全然自信がない。言いたいことを細かいニュアンスまで言えないし、ネイティブが本気のスピードで話してきたら、聞き取りさえ難しい。

僕にとって英語は、あくまで外国語なんだ。多くのみなさんと同様、中学生以降、定期テストがあるから仕方なく勉強した一科目に過ぎない。
片方の親が英米人であるとか、幼少期を海外で過ごしたとか、教育熱心な親のもと幼少期から英語環境に身を置いていた、というような人とは、超えられない壁がある。
今の僕がどう頑張っても、バイリンガルにはなれない。
だからこそ、うらやましいなと思う。

バイリンガルの利点を報告する研究は多い。
たとえば、バイリンガルはアルツハイマー型認知症の発症が、モノリンガル(ひとつの言語しか話せない人)と比べて数年(〜4.5年)遅いことが知られている。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5320960/
これはすごい話だと思う。
アルツハイマー病というのは、ざっくり言えば代謝性疾患だ。環境要因なり食生活の乱れに起因する栄養不良なりが背景にあるはずで、だからこそ、栄養療法が一定の効果をあげるわけだ。
しかし、バイリンガルであるという、ただそれだけで、アルツハイマー病の発症が有意に遅くなるというのだから、実に驚くべきことだ。

研究で証明されているような利点だけじゃなくて、バイリンガルのメリットは他にもたくさんあるだろう。
まず、単純にモテそう^^バイリンガルって頭良さそうだからね。

バイリンガルであるということは、部屋に窓が二つあるようなものだと思う。見渡せる景色が普通の人の倍あるんだから、その分、豊かな人生を送れるだろう。
特に、世界中のインターネット上の情報量の大半は英語だから、「英語」という窓を持っていることは圧倒的な強みに違いない。
英語の情報を翻訳して日本語で発信する。それだけで十分ビジネスになりそうだな。
仕事という意味では、この国際化の時代、バイリンガルの人が職探しに困ることはないだろう。

英語のテレビ番組や映画を英語のままで理解できるというのは、字幕を介するわずらわしさがない、ということだ。これは大きいと思う。
言葉というのは文化そのものだから、厳密な意味では本来、翻訳なんてできないはずなんだ。”I love you” なんていう露骨で品のない言葉は、「しのぶ恋」こそが至上とされる日本にはかつて存在しなかった。だからこそ、明治の人たちはどう訳したものかと散々頭を悩ませた。そんななかで「月がきれいですね」なんて表現まで生まれた。

バイリンガルであるということは、単に二つの言葉に通じているというだけでなく、二つの文化に通じているということだ。
医学部時代、同級生にバイリンガルがいた。両親は日本人だけど、幼少期から中学までアメリカで過ごした。日本語は、普通の学校とは別に日本語学校に通って勉強した。英語も日本語もフルコマンド、まったく問題なく話せる彼なんだけど、こんなことを言ってた。
「通訳って苦手なんだよね。目の前でアメリカ人が何か話してるとするでしょ。当然言ってることはわかる。でもその内容を、別の日本人に日本語で伝える、となったら、妙に億劫な感じがする。いや、できるんだよ。できるんだけど、そんなにすぐにパッとできないっていうのかな」
何となく言ってることが分かる気がする。
言葉というのはデジタルな記号なんだと割り切って考えれば、通訳というのは「左から右への置き換え」に過ぎない。でも、本当はそれだけじゃなくて、文化の置き換えという意味合いもある。通訳のプロセスで失われるニュアンスがあるし、逆に変に付け加わるニュアンスもあったりして、通訳というのはそんなに楽々とできるもんじゃない、ってことを、彼言いたかったんだと思う。

さて、うらやましいバイリンガルなんだけど、いいことづくめかというと、どうもそうでもないらしい。
誰しも、「思考言語」というものを持っている。モノリンガルの人は当然これをひとつしか持っていないんだけど、バイリンガルはこれを二つ持っている。
二刀流でいいじゃないか、と一瞬思うんだけど、思考言語が複数あって定まらないと、抽象的思考力が育たない、という説がある。剣を持つのは一本だけにして、それを懸命に磨いたほうが有能な剣士になれる、といったところだろうか。
https://www.cell.com/trends/cognitive-sciences/fulltext/S1364-6613(12)00056-3
他にも、バイリンガルはメタ認知の能力が弱い、という報告がある。
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0010027716300361

子供をバイリンガルにしようとして、言葉も話さない時期から英語と日本語のチャンポンの環境に我が子を置いている教育熱心な親御さんは、ちょっと立ち止まって考えたほうがいい。
意外に盲点なんだけど、英語ができるからチヤホヤされるのは、日本にいるからこそ、なんだな。外国では英語なんて、できて当たり前、だから。
個人的には、バイリンガルとして育てられていろいろメリットがあるとしても、それと引き換えに抽象的思考力やメタ認知能力が低下するとなったら、割に合わないと思う。
英語よりも、まず国語、だよなぁ。

公立高校

2019.8.29

僕は兵庫県の明石市で育って、長野県の信州大学を卒業して医師免許を取得し、鳥取県の市中病院で研鑽を積み、再び兵庫県に戻ってクリニックを開業した。
人生の一時期を長野県や鳥取県で過ごしたことは僕の中で大きな財産になっている。
県外で過ごすことの何がいいと言って、地元を離れることで自分のことを相対化して見れるようになることだ。
同じ日本だとはいえ、言葉も違えば気候も違うし、ダシの味をはじめ食習慣も違う。
違いが大きいほど、自分のなかの「当たり前」が揺さぶられて、成長にはきっとプラスだと思う。そういう意味では、どこか海外に留学する機会があればもっとよかったんだけどな。

近所の塾で講演会をするようになった縁で、兵庫県の教育事情について見聞きする機会が増えた。塾関係者から聞く話や、長野や鳥取での経験を踏まえて気づいたのは、兵庫県の特殊性だ。
地元にいたままでは、「優秀な子が公立高校に行く」という言葉の意味が、僕にはわからないままだっただろう。

長野県に住んでいる頃、松本市出身のクラスメートが教えてくれた。
「松本ではね、まず何よりも、深志なんだ。
深志高校出身であること。これが絶対的な印籠になる。他の公立の美須々(みすず)や県(あがた)ではダメで、私立ではまったく話にならない。
地元の名士、官公庁や企業の偉いさんは、ほぼ例外なく深志の卒業生だ。新参者でも深志出身なら、「君、深志の何期生?」と目をかけてもらえる。深志コネクションってすごいんだ。
たとえば選挙なんかで、すごく優秀な学歴の立候補者がいるとする。東大卒とかハーバード大卒とか。一方に深志高校出身、信州大学卒の立候補者がいるとする。他の条件が同じなら、どちらの候補が当選するかは選挙前から見えている。
松本で何かしようとなれば、深志の団結力、深志の絆はものすごい力になってくれるよ。でも逆にいうと、その集団から外れてしまう人はちょっと生きにくいかもね。
親は子供に「頑張って深志に行けよ」ってハッパをかけるし、子供たちは深志合格を目指して勉強する。
よくも悪くもさ、松本はそういう土地柄なんだよ」

鳥取も同じような雰囲気だった。地元の優秀な子弟は皆、公立の鳥取西高校に進学した。
兵庫県の近県を見ても、事情は似通っている。大阪府では北野高校が、岡山県では朝日高校が、滋賀県では膳所高校が、公立の雄として有名だ。
これは日本全国で言えることだろう。
そう、僕はようやく理解した。
「優秀な子は、公立に行く」それが日本全国の標準的なスタイルなのだ、と。

しかし、なぜ僕は誤解していたのだろう。これには理由がある。
兵庫県は私立の進学校が多いのだ。
灘は別格の絶対王者だとしても、甲陽、白陵、六甲、淳心など、層が厚い。
灘の存在感に霞んで全国的な知名度はないけど、甲陽なんてすごく優秀な学校だよ。

さらにいうと、兵庫県の公立高校のレベルが低い、という面も確かにある。
兵庫県は最近まで16の学区に分かれていて、公立に進学する生徒はその学区内の高校から志望校を選ぶことになっていた。つまり、学区の制限のせいで、学校選択の幅が狭かった。
優秀な生徒が、教育レベルの低い学区に住んでいればどうなるか?
公立に行こうなんて思わない。進学実績の確かな学校に行こうとして、私立に優秀な生徒が流れる。
さらにいうと、教師の引き抜きもある。公立高校で教え方がうまいと評判になるような先生は、私立に高給で引き抜かれる。こうして、ますます公立がさびれていくわけだ。
こうした状況に危機感を持った人たちが、2015年に学区を新たに再編した。学区が広くなって、学校選択の幅が広くなった。
質の高い生徒を獲得するために、学校間での競争が促されて、教育レベルが上がることが期待されてるんだけど、どうなることやら。
長田高校や加古川東高校が全国的に有名な進学校になる日が来るかもしれないね。

優秀な生徒が私立に集まる、という現象は、兵庫県だけでなく、東京都にも見られる。
西の横綱が灘だとすれば、東の横綱は開成だろう。その他、麻布、駒東など、やはり東京も私立の層が厚い。
公立が苦戦している点も兵庫県と似ている。公立高校の教育改革に取り組んでいるが、かつての日比谷高校のような実績はまだあげられていないようだ。

仕事柄、受験勉強で疲れた生徒を診察することも多い。
小学生、中学生、高校生、みんな、勉強のストレスで疲れている。
勉強のストレス?
こんな言葉は、本来形容矛盾なんだ。
勉強は、自分の知らないこと(未知)が知っていること(既知)に変わっていく、最高に楽しい遊びのはずで、ストレスであろうはずがない。
それなのにいつのまにか、勉強が「耐えるべき苦行」になっている。こんなにもったいない話ってない。
林修先生が言ってた。「勉強が嫌なら、やめなさい。勉強というのは、ぜいたくなんだから」と。これには痺れたなぁ。
「世界には勉強したくても、経済的な事情で勉強できない人が無数にいる。そんななか、せっかく存分に学ぶ機会を与えられながら、親から仕送りなんて受けながら、『勉強が苦痛でしかたない』なんて言う。
もういい。誰もお前に『勉強してくれ』なんて頼んでない。嫌なら、やめとけ」
本当にその通りだと思う。
でもこういう「本当の話」は、塾の講演会では、立場上、なかなか言えないんだな。