院長ブログ

潰瘍性大腸炎とCBDオイル

2019.9.25

40代男性。潰瘍性大腸炎の診断を受けている。
「トイレにずっとこもりきりで、仕事になりません。
便意を感じて一度トイレに行ったら、1時間は出られない。いや、本当を言うと、1時間でも自分には大きな妥協です。
許されるならもっと長くトイレにこもっていたい。でも仕事があるから、しぶしぶトイレを出ます。
しかし、しばらくするとまた便意が訪れて、トイレに行かないといけない。一日にそういうことが4、5回はあるでしょうか。
最初は『生理現象だから仕方ないね』と言ってくれた上司も、次第に態度が冷たくなって、
『ちょっとひどいよね。一回でしっかり済ませられないものかな』
『あのさ、トイレにこもっている時間も給料が発生してるっていう自覚、ある?』
病気に対する理解がない、と言いたいところですが、上司の気持ちはわかります。
潰瘍性大腸炎になって初めて、この病気のつらさがわかりましたから。上司には申し訳なく思います。
トイレに思う存分こもれないこと、上司の冷たい態度、そういうのが大変なストレスで、ますますおなかの調子が悪くなります。
何とかならないでしょうか。
診断を受けた病院から薬を二つ処方されていて、飲んでいます。しかしほとんど効いてる実感がありません。
この症状が少しでも改善できれば、と思ってここに来ました」

上記は何も特殊例というわけではなく、潰瘍性大腸炎の患者にはありがちな話だ。
しぶり腹、という症状で、便が出てもすっきりしない。延々満たされない便意を待って、トイレにずっとこもりきり、ということになる。
単純におなかが不愉快というだけでなく、上記のように、仕事や学業に差し支えが生じることもよくある。
腸脳相関、ということが最近よく言われるように、腸の不調は脳神経系の機能低下やストレス耐性の低下につながるし、逆にストレスが腸の症状を悪化させたりもする。
この悪循環に、患者は苦しむことになる。

さて、このような患者にどのようにアプローチするべきか。
まず、食事の改善は絶対の必要条件だ。とりあえず精製糖質、小麦製品、乳製品の摂取を控えるように言った。
それプラス、何かできることはないか。

まず、潰瘍性大腸炎の患者では血中ビタミンD濃度が有意に低いことが分かっている。
https://link.springer.com/article/10.1007/s10620-012-2531-7
大腸癌の発生率が高いことも、これと関係しているかもしれない。
一日中デスクワークで外にほとんど出ない人では、日光に当たる機会もないだろうから、サプリが何より心強い味方になる。
「サプリではなく、できるだけ食品で治したい」というこだわりのある患者にも、ビタミンDだけはぜひともサプリで、とお勧めしている。

『ナイアシンはプロスタグランジンD2を介したDプロスタノイド受容体1の活性化によって潰瘍性大腸炎を改善させる』という論文がある。
https://www.embopress.org/doi/full/10.15252/emmm.201606987
細かい内容はここでは省く。しかし論文のタイトルを読むだけで、いわんとすることはわかるだろう。ナイアシンが潰瘍性大腸炎に有効、ということだ。
そこで、ホットフラッシュの副作用に注意喚起しつつ、ナイアシンの服用も勧めた。

さらにもう一つ。『炎症性腸疾患におけるカンナビジオール』という論文。
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/ptr.4781
大腸炎に対する大麻の有効性は、実は昔から言われていた。しかし、臨床で使う際に最も困るのは、大麻の酩酊作用だった。
「下痢は治ったものの、ラリってしまう」ということでは、やはり仕事にならない。そういう事情があって、腸疾患に対する大麻の使用は長く忘れられていた。
しかし精製技術が進み、THC(酩酊成分)を除去してCBD(有効成分)だけを残すことが可能になった。
今やアメリカでは多くの潰瘍性大腸炎患者がCBDオイルで救われている。
なぜCBDオイルが効くのか。長年その機序は不明だったが、今では多くのことが分かっている。
CBDオイルは外因性カンナビノイド系受容体(たとえばペルオキシソーム増殖因子活性化受容体γ)に作用して薬効を発揮している。
こうした作用をする薬物は他になく、腸疾患に対する新たな薬としての役割が期待されている。
もっとも、効きもしない薬を売ってぼろ儲けしている製薬メーカーが、こういう「本当に完治させてしまう薬」の普及を許すわけがないと、個人的には思っている。
CBDオイルが厚労省のガイドラインが推奨する治療薬に記載されることは、今後もおそらくあり得ない。本物は、その本物さゆえに、無視(あるいは弾圧)されるものだ。
厚労省推薦のスタンダード治療であっても治せなければ意味がないし、一般に認められていなくても、効くものは効く。
僕は細々と、自分の患者にCBDオイルを使っている。そして上記の患者にも、お勧めした。

さて、上記患者の初診から2か月後。
「ずいぶんよくなりました。
まだ会社でトイレに行くことは行きます。3回くらいは行くでしょうか。でも、行ったとしても、トイレに入っているのはせいぜい5分ほど。
昔のように1時間もこもるなんて、まったくなくなりました。仕事の集中力もつきましたし、長時間働いても以前より疲れにくいように感じます。
先生のおかげです。ありがとうございます」
潰瘍性大腸炎は指定難病で、一般に治癒は困難とされている。
しかしその難病が、2か月でほぼ寛解してしまった。
見る人から見れば、この診察室の風景は、ちょっとした「奇跡」である。
しかし僕は淡々と「いえ、僕のおかげというか、食事制限をちゃんと守ったりして頑張っておられるでしょう。治ったのは、ご自身の努力のおかげですよ」と答える。
そう、そもそも難病なんかじゃないんだ。
食事を改め、あとは治癒を早める栄養素を上手に取り入れれば、それだけであっさり治る病気なんだ。
しかし、寛解に際して、ビタミンD、ナイアシン、CBDオイルのうちどれが決定打になったのか、それはわからない。
早く苦痛をやわらげてあげたくて、すべて同時に使ったからだ。
どの一つが、というわけではなく、相乗的に効いたのかもしれない。
しかし僕は研究者じゃなくて臨床医だから、とにかく患者が治れば、ひとまずそれで万々歳なんだ。

単純から複雑へ

2019.9.23

はじめ、物事はシンプルなはずだった。すべて見慣れた簡単なものばかりで、きちんと理解できた。
でも段々複雑になってくる。わからないことが増えてきて、もはやすべてを理解するなんてできない。窒息しそうな複雑さのなかで、自分を見失わないようにすることで手一杯、という有様だ。

具体的に何に対する比喩、ということではない。
どんな物事も、単純から複雑へ、という流れに従っているようだ。
たとえば体の構成要素。
僕らが食べているものは、ほとんどがCとHとOという、ごくシンプルな元素から成り立っている。
この単純なピースが複雑に組み合わさって、精妙無比な機能を持つ細胞が作られる。
医学の研究はすべて、単純なピースが織りなす複雑系に対する挑戦のようだ。

将棋もそうかもしれない。
序盤はシンプルで、指し手も限られている。しかし局面が進むにつれ、可能な候補手は指数関数的に増えていく。
頭の中の将棋盤に様々な「あり得る未来」を描きながら、可能性の海のなかを深く潜っていく。序盤の単純さはどこへやら、今や複雑さのなかで溺れないように必死になっている。
逆に、「詰むや詰まざるや」の最終盤になると、再び候補手は絞られてくる。単純から複雑へ、そして再び単純へ、収束していく。これが将棋の流れだと思う。
将棋の強さは、中盤から終盤にかけての、特に焦点のない「ぼんやりした局面」で、いかに厳しい手をさせるか、にかかっている。

自然数もその例かもしれない。
1、2、3、4、5、、、
数字の並び。単純にして、しかも美しい。
しかしたとえば、こんな並びはどうか。
7062、7063、7064、7065、7066、、、
同様に、自然数の並びではある。しかし、別に単純でもなければ美しくもない。
自然数は、いつ「美しくなくなる」のだろう。
森毅先生が、ある本のなかでこんなことを言っていた(うろ覚えだけど)。
「たとえば正多角形を考えてみる。正三角形や正方形は基本。タイルの敷き詰めもできるし、美しい性質もたくさんある。
正五角形は内部に黄金比を宿しているし、正六角形は正三角形の組み合わせだから、やはり美しい。しかし正七角形は、数学的に特に興味深い性質もないし、特段美しくもない。
つまり、正多角形のうち最初の『美しくない』多角形は、正七角形だと言えそうだ」
言われてみれば、そうかなと思う。
人間が一度に認識できる個数は、特別な訓練をしている人でなければ、7あたりが限度だという。
目の前に6個のコップがある。「6個」と認識できる。
しかし7個以上になれば、何個というより、「たくさん」と認識する。
このあたりが、単純と複雑の境目なのかもしれない。

すべてが手のひらにおさまるような単純系は、美しくて魅力的だ。
しかし人間には、その世界に安住することをよしとせず、複雑系のなかに飛び込んでいこうとする性質があるようだ。思いがけないお宝やワクワクは、複雑系のなかにこそある、という思い込みがあるのかもしれない。
一方、ときどきそんな複雑系にうんざりして、単純さが恋しくなったりする。都会暮らしの喧騒に疲れれば、田舎の実家が心地よいものだ。
複雑と単純、両方を希求する矛盾した心が、人間の本質なのかもしれない。

天狗裁き

2019.9.22

電話で起こされた。
「施設職員から連絡で、利用者で息が止まっている人がいる、とのことです」
起き上がって時計を見ると、深夜3時。
死亡確認の依頼だからそれほど急ぐこともないのだが、すぐ身支度を始める。
看護師からカルテを受け取って、タクシーに乗り込んだ。

行き先の介護施設の名前を告げた。タクシーが動きだす。
座席に深く腰をかけ、大きなため息をついた。
眠気のモヤが、まぶたのあたりを覆っているようだ。
タクシーのなかではラジオの落語番組が流れていた。
演目はすぐにわかった。桂米朝の『天狗裁き』。昔同じ音源のCDを持っていて、何度も聞いたことがある。
でも、笑う気になれない。
頬を動かしてニヤリとする気にさえなれなかった。

眠気と、眠りを中断された不愉快と、笑わせようとする米朝と、誰かの死亡確認に向かう自分と。
深夜の都会を走るタクシーのなかで、自分という人間が、急にわからなくなる錯覚に陥った。「一体俺は、今どこにいて、どこに向かっているんだろう」

ものの数分で施設に到着した。
死亡確認にかかる時間は、それよりもっと短かった。
90代女性。いつものように眠りについた。深夜巡回していた職員が、呼吸が止まっていることに気付いた。
老衰。何の苦しみもなく、眠るように、あるいは眠りとともに、息を引き取った。
「3時27分。死亡を確認しました」厳かに宣言して、ご遺体に神妙に頭を下げた。

待たせていたタクシーに戻ると、まだ落語が続いていた。
話はいよいよ終盤、サゲに向けて、米朝が鞍馬の天狗を演じているところだった。
「女房が聞きたがり、隣家の男が聞きたがり、家主が聞きたがり、奉行さえ聞きたがったという、おぬしの夢の話。
そんなもの、この天狗にとっては、つまらぬ話よ。聞きとうもない。
聞きとうもないが、しかし、、、
そのほうがどうしてもしゃべりたい、というのなら、聞いてやらぬでもないぞ」
「いや、もう堪忍しとくなはれ!ワシ、ほんまに夢なんか見てやしまへん」
「天狗をあなどる気か!八つ裂きにしてくれる!」
「あー!助けてー!」
ふと、妻の呼ぶ声がする。「ねぇ、ちょっと、あんた。ねぇ、あんた、えらいうなされて。どんな夢みてたん?」

そう、人生は確かに、夢のようだ。
現実のなかで、夢のように現実感のない経験をすることもあれば、夢のなかで妙に現実感のある経験をすることもある。
現実と夢は、その境目に立って、対比を感じることでしか、違いを認識できないようだ。
しかし、夢か現実、その二択なのかな。
深夜眠気がくすぶる頭で、すでにこの世にいない米朝の落語を聞き、誰かの死亡を確認する、そういう自分が妙にシュールで、この経験自体、何かの夢なんじゃないかという気さえする。夢か現実か、ではなく、その中間にただよっていたような。
現実はそれほどソリッドでもなく、かつ、案外、夢もそんなにフワフワしてないような気がする。

『境界性人格障害患者では、夢と現実を混同しがちである』
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2015.01393/full
なんていう論文もあるが、夢と現実の混同は誰しも起こし得るものに違いない。
個人的には、夢と現実の境目に立つような不思議な感覚は、嫌いじゃない。
ただ、悪夢だけはごめんこうむりたい。
この世界には、医療が人助けどころか、むしろ人殺しになっているという、悪夢のような現実がある。起きても覚めない嫌な夢も、『天狗裁き』のように笑えるのならいいんだけど、現実の悪夢は笑えない。
僕はそういう医療に自分なりに抵抗しているんだけど、きちんと戦えているだろうか。ときどき、夢のなかでもがいているような、息苦しい無力感にとらわれるときがある。
そういうときには、落語でも聞いて、せめて笑いに紛らわせないと、やってられないんだな。

皇族の人権

2019.9.20

ユーチューブで、「天皇とかいう国営宗教は廃止すべき」という動画を見た。
ざっと要約すると、
「テレビや新聞などのマスメディアで『様』という敬称をつけて報道される天皇(あるいは皇室)という存在があることは、異常だ。
創価学会の池田大作をニュースで『池田様』と呼べば、誰でも異常だと感じるだろう。しかしメディアにすっかり洗脳されている我々は、天皇についてそれを異常に思うことはない。
創価学会にお布施をする人は同意のもとでやっているが、皇室には毎年200億円の予算が計上されている。
これは、天皇教とでもいうべき、国民全員参加型の国営宗教に他ならないのではないか。
そもそも、天皇はそんなにすごい人なのか?我々が伏して拝むべき偉大な存在なのか?
違う。そこらへんにいる普通のおじいちゃんだ。
我々は、天皇の行いや人間性に敬意を払っているわけではなく、単に天皇という称号にひれ伏しているだけだ。
スティーブ・ジョブズは偉大だ。彼がいなければ、マウス式のウィンドウズやタッチパネルのiPhoneも生まれなかった。しかしNHKで「ジョブズ様」と報道されるか。されるわけがない。特定の個人を『様』付けで呼称する異常さを、みんな認識しているからだ」

このあたりまでが前半。
割とよくある天皇批判で、特に新味はない。
どうでもいいことだけど、マウスの発明者はエンゲルバートで、タッチパネルの発明者は日本人。別にジョブズが作ったわけではない。ただ、ジョブズがいなければウィンドウズやiPhone が生まれなかったという指摘は、その通りだろうな。

後半の主張は、ちょっと新しいと思った。
「天皇制の本当の問題は、皇族という一部の人が不当な好待遇を受けている、ということではない。むしろ、その逆だ。
皇族の人にとって、人権はまるでないがしろにされている。
皇族に生まれれば、生まれてすぐに、マスコミから好奇の視線にさらされる。その行動や言動の一挙手一投足が報道され、プライバシーなんてあったものじゃない。
学校に入れば、高い確率でいじめられる。
普通の人のように、『夢』を語ることさえできない。『天皇になりたい』なんてこと、言えない。そもそも、皇族に主体性はいらない。国民の象徴なのだから、今後のあり方は政府の審議によって決められる。
たとえば、なりたい職業につくために頑張って努力する。そういう努力の場さえ、皇族には与えられていない。
伝統だから我慢しろ、っていうの?
伝統だから、国民の象徴だから、人権がなくても仕方ないじゃないか、って?
人権というのは、そういうものじゃないでしょう。生まれた瞬間から、万人に等しく与えられている。それが人権でしょ。
そのはずなのに、皇族という一部の人たちにだけは、人権が剥奪されている。
21世紀の現代にこんな野蛮が堂々と行われている状況が、一体看過されていいのか」

皇族の人権、という視点はおもしろいと思った。
一昔前の日本人なら、誰しも身分相応という美徳を持っていた。百姓の家に生まれたら自分も百姓で、百姓なりの生活をやっていく。大工に生まれたら大工だし、商人に生まれたら商人。みんな自分の分相応をわきまえていた。でも不幸かというと別にそうでもなくて、それなりに楽しく人生をやっていた。
それが、西洋の価値観が入ってきて、人権なんてものを与えられた。全員皆平等で、職業選択の自由なんてのも与えられた。
封建制の時代に生きていた人を、抑圧のもとで苦しむかわいそうな人だとすれば、西洋の価値観が浸透することは、「解放」ということになるだろう。
個々人に人権があって、世襲とかに縛られず、自分の好きなように生きていける、という価値観は、庶民だけのものではなくて、皇族にも等しく共有されるべきだ。
だから本来、皇族も「解放」されるべきなんだ。たとえば愛子様や悠仁様が、コンビニバイトしたりする自由も認められるべきなんだけど、そんなこと、絶対に許されない。

子供時代って、誰しも未熟なものだ。でも、未熟なりに世間に揉まれて、だんだん人間ができてくる。同級生とケンカしたり、誰かに恋したり失恋したり、勉強で優越感や劣等感を感じたり。心の中で嵐が吹き荒れるような少年時代、青年時代をくぐり抜けて、みんな大人になっていく。
そのはずなんだけど、皇族だけは、その様子を始終監視されている。マスコミが、SPが、その他多くの人々の好奇の視線が、皇族を見つめている。
もっとバカなことを言ったりやったりしたいだろうに、許されない。
未熟であるべき子供時代に、落ち着いた完成形を求められる。たまらんやろうな。
こんな気の毒なことってない。

この動画を作った人は、天皇という国営宗教は廃止すべき、と言っている。
個人的には、賛成しない。
動画前半の、「国民の税金でぜいたくな生活してる」とか「普通のおっさんのくせに、天皇っていう称号だけでチヤホヤされてる」とか、主張としては幼いな。
ただ、動画後半、皇族の人権というテーマは、とても重いと思う。

明治以降、天皇が東京に移って以降、庶民の天皇のイメージは大きく変わった。
政治が天皇の権威を利用して、現人神として変に奉ってしまった、という歴史的な事情もあるだろう。
もう一つ、東京と京都、土地柄の違いもあるんじゃないかな。
平成天皇が新幹線で京都駅に到着したとき、周囲の人だかりのなかから、「天皇さん、お帰り!」という声があがったという。
こんなエピソードは、東京では考えられない。
東京の人は、まず、陛下相手に呼びかけないし、ましてや「天皇さん」なんて、そんな呼びかけはあり得ない。頭の固い人は、「不敬だ!」なんて言いそうだ。
現在の皇居はもともと江戸城で、いわば要塞だった。一方、かつて天皇の住んでいた京都御所は、壁も低くて、庶民との距離感は近い。
敬して遠ざけるような冷たさがある東京と違って、さすが千年天皇のお膝元だった古都だけに、天皇、庶民、双方に近しさがあるようだ。
天皇が東京に移らずにずっと京都にいたなら、皇族を『様』付けで呼ぶような今の妙な習慣は生まれず、もっと庶民に親しみのある存在だったんじゃないかな。

https://m.youtube.com/watch?v=I7N4Asu5jzQ&ebc=ANyPxKqfY8C3Fj_0XrdxnjYRbqe1FchMfTT68WUCQYN5bBEuO0cqbKVJlGDg-Bsuz0bECTewZHI4BcTmIhkCGgMan1cHQQ8M0Q

サプリの副作用

2019.9.20

何らかの体調不良があって、その原因がビタミンやミネラルの不足であった場合、サプリメントがよく効く。
たとえば、飽食の時代とされる現代日本にも”隠れ脚気”や”隠れ壊血病”の人がいるもので、前者にビタミンB1を、後者にビタミンCを投与すれば、劇的に改善する。
患者は快癒を喜び、医者に大いに感謝する。
「ちゃんと食事をしているつもりだったが、意外に栄養不良があるものなんだな」と患者は認識を改める。
ここまではいい。
しかし、さらなる健康を求めて、サプリ信者になる人がいる。
風邪のときに薬を飲んで症状が治まって(実際には風邪は薬で治らないが)、「これはすばらしい薬だ」と感動して、それ以後毎日風邪薬を飲み続ける、なんて人はいない。
しかしサプリでは、そういうことがしばしば起こり得る。

ビタミンやミネラルの欠乏症状に対しては、サプリメントを使えばいい。ここに異議を唱える人はいないと思う。
しかし短期的に著効するサプリを、長期的に服用しても、何ら問題はないのだろうか。
長期的に飲み続けても、やはり体にいいのか。それとも、何らかのデメリットがあるのか。
実はこの点については、議論がある。

僕はホッファーの本を読んで栄養療法に目覚めた。
ホッファーの本に、このような記述がある。
「患者が言う。『先生のおかげで病気が治りました。しかし先生、私はいつまでサプリを飲み続けないといけませんか』
このような質問に対して、私はいつもこのように答えることにしている。『あなたが快適でいたい限り、ずっとです』と」
ホッファーは、ポーリングとともに栄養療法を創始した立役者の一人だ。
対症療法一辺倒の既存の医学界にとって、栄養療法の出現は脅威だった。製薬会社にとっては特許のとれないビタミンは、一円の得にもならない。それどころか、ビタミンなんぞで患者の病気が治ってしまっては、薬が売れなくなってしまう。
そこで製薬業界は栄養療法を潰すために、ありとあらゆることをやった。ネガディブキャンペーンもやれば、御用学者にビタミンの有害性を喧伝する捏造論文を書かせたりした。ロビー活動をして政治家に働きかけ、サプリを『薬』として扱うよう(つまり、一般の人が簡単に買えないよう)法律を改正しようとさえした。
ホッファーは、そういう弾圧と実際に戦ってきた人なんだ。サプリの効用(大量長期服用も含め)を全面的に擁護するのは当然だろう。
その心情は理解できる。

しかし、様々な研究が行われ、新しい知見が蓄積して進歩していくのが科学の世界だ。ときには従来の常識が覆るパラダイムシフトが起こることもある。栄養療法もその例外ではない。
「ある種のサプリメントの長期的服用は、むしろ健康にマイナスではないか」という研究がいくつかある。
こういう研究に対して、どこから研究資金が出ているのか、とひとまず疑う姿勢は重要だが、「製薬会社のネガディブキャンペーンに違いない」と決めつけるのも、公平な態度ではないと思う。

僕の臨床経験でも、「その体調不良はおそらくサプリメントの大量服用によるものではないか」と思われる症例を見たことがある。
この患者は知的レベルの高い人で、漫然とサプリを飲んでいるわけではなかった。「このサプリはこの論文で有効性が示されているから」と、自分できちんと考え納得した上で飲んでいるような人だった。
ただ、飲んでるサプリの種類と量がものすごく多かった。
飲んでいるサプリの一覧を見た。確かに、どのサプリも悪くない。一つ一つを見れば、各々の症状にきっと効くはずだ、と思う。しかしこれを全部飲むとなると、ちょっと、、、
どう助言したものかと、言葉に詰まってしまった。一つ一つは、全部合っている。でも全体としては、間違っている。
還元主義の罠だ。局所の事実の総和が、全体の真実とは限らない。

https://www.consumerreports.org/cro/2014/05/do-vitamin-supplements-work/index.htm
ここにあげられている例として、以下のようなものがある。
・50歳以上の男性において、ビタミンE、セレンの長期服用は前立腺癌の発症リスクを増加させる。
・マルチビタミンのサプリを長期に服用しても、癌や心血管系疾患の予防効果はなかった。また、加齢に伴う精神機能の低下を予防する作用もなかった。
・オメガ3系脂肪酸のサプリを長期に摂取しても、心血管系疾患(心筋梗塞、脳卒中など)の抑制にはならなかった。

「効果がない」だけならまだしも、逆に癌のリスクが上がるとか、本当ならショックだな。
僕のほうにも「抗酸化物質だから、体に悪いはずがない」という思い込みがあるから、ビタミンEにしてもセレンにしても、遠慮なく飲み続けていいよと患者に勧めてしまいそうだ。
こういう研究を見てしまうと、長期的な健康の維持にはやっぱり食品が無難だなと思う。
もっというと、短期的にすぐ改善させたい場合でも、食品で改善させるのが本来あるべき形なんだろうな。
食養生という言葉があるように、B1欠乏ならぬかとか胚芽を食べればいいし、C不足なら柑橘類を食べればいい。
食事の一工夫で改善するところ、サプリの服用を勧めるというのは、一見近道のようでいて遠回りなのかもしれない。