院長ブログ

性的な

2018.8.18

健康とは何か。
WHOの定義では、「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であること」とあるけど、抽象的すぎると思う。
もっと平たく、「ご飯が食べれて、ちゃんと眠れて、エッチもできて」っていう、人間の三大欲求が満たせてる状態、と定義するほうが便利じゃないかな。
何が便利って、臨床的な判断基準として使えるんだよね。
たとえばうつ病になると、食欲が低下して、不眠になって、エッチする気も何する気も起こらなくなることが多い。逆に、うつ病が治ると、そうした症状は軽快する。
三大欲求は健康のバロメーターなんだ。

ただちょっとした問題は、臨床現場でエッチについてはあからさまに聞くのは、何となくはばかられる、ということ。
主訴が男性の勃起不全とか女性の性交痛であった場合はさすがに患者からすすんで語ってくれるだろうけど、そうでもない限り、患者のほうから積極的にしゃべる話じゃない。
主訴が内科的なことや精神科的なことであっても、実は性的なことにも悩んでいる、というケースは思いのほか多いものだ。
夫婦間でパートナーのいずれかに問題があって性生活ができない状況というのは、離婚の危機にもなり得る。性生活の不一致、というのは、「婚姻を継続しがたい重大な事由」として裁判でも認められているぐらいだからね。
エッチができるできないというのは、一般の人が思う以上に重要な問題なんだ、マジメな話。

性的な事柄が主訴であった場合、どのように対応すべきか。
男性の場合、「バイアグラ出してくれ」とズバッと商品名出して注文されることがある。それがご希望とあればもちろんそれに応じるんだけど、黙って処方してあげればいいところ、僕も一応栄養療法をかじっている身。西洋薬以外のチョイスがあることも提示することにしている。
それは、アダプトゲン、特にロディオラである。
ロディオラは、即効性の点ではバイアグラに負ける。でも劣っているのはそこだけで、それ以外の点では断然ロディオラに分があると僕は思っている。
まず、副作用。ロディオラには副作用がほとんどない一方、バイアグラには頭痛、紅潮、胃もたれ、一過性色覚異常などがある。それに、狭心症などニトロ系の薬を飲んでいる人がバイアグラを飲むと、致死性の不整脈が起こる可能性がある。
次に、薬価の高さ。バイアグラの値段は、クリニックによりばらつきはあるだろうけど、1錠あたり千数百円ぐらいする。一方のロディオラは1錠数十円。バイアグラは体への負担のみならず、財布にもけっこうな負担になる。
さらに、性的興奮の性質の違い。バイアグラを使っている人の感想を聞くと、「これは確かに効く。もう使い物にならないと思っていた自分のモノが、確かに固くなる。これには最初、感動した。でも慣れてくるにつれ、その不自然さに気付き始めた。確かに固くなるけど、でもそれだけなんだ。単に固くなるだけで、そこには感情の高まりがない。どっちかというと、気持ち的には冷めているのに、股間のモノだけはギンギンという状態って、むしろ不愉快なんだ」
では、ロディオラがもたらす性的興奮はどのようなものか。「ロディオラは、ただ股間を固くさせるだけではない。きちんと感情を高めてくれる。パートナーを愛しく思って、その結果、股間が固くなっている、という感じだ。物語をくれる、とでも言おうか。バイアグラの即物性、『自分』が不在の勃起に比べると、ロディオラによる勃起には、確かに『自分』がある。ちゃんと自分がセックスしているんだ、という実感がある。中学生のときに感じたような、あのどうしようもない胸の高まり、せつないような気持ちを、この歳になって思い出したよ」

バイアグラを飲んでも女性が性的に興奮することはない.
(https://www.liebertpub.com/doi/abs/10.1089/152460902317586001)
つまり、女性の性的な問題に対してバイアグラは無力だが、ロディオラは女性の性的な悩みの解決にも有効だ。
スカンジナビアのある地域では、村で挙式をあげた新婦にロディオラのブーケが贈呈される。村の人々は皆、その意味を知っている。ロディオラの有効性に科学のメスが入ったのは最近のことだが、村の伝統的な知恵はそれが多産もたらすことを知っていたのだ。

エストロゲンとプロゲステロンのアンバランス。膣乾燥。そこから来る性交痛や、その結果としての性欲低下。こうした女性特有の症状に対して、ロディオラは、テストステロンを増やすことで作用する。
テストステロン?
そう、テストステロンは男性だけのホルモンではない。女性の卵巣でも産生されている。さらに、副腎皮質からのデヒドロエピアンドロステロン(DHEA。テストステロンの前駆体)の産生増加を通じて、女性はいわば「肉食」になる。
この過程で、「最近妙に疲れやすいな」といった副腎不全症候群の症状も同時に軽快するはずだ。

主訴が何であれ、その主訴を抑えるだけ、というのが西洋医学の薬にありがちなパターンだ。「熱が出てしんどいんです」という主訴に対して、解熱薬を投与すれば、なるほど、熱は下がるだろう。確かに、患者の訴えを汲み取り、それに対処した。でもそれが根本的解決になっているかというと、全然なっていない。患者は再び発熱するだろう。
ビタミンやアダプトゲンを使った栄養療法は、一見回り道かもしれないけど、結局のところ根本治療につながっていて、主訴にはなかった症状もついでに解決してくれることが多い。
「閉経してから、吹き出物が多くなって」という50代の女性にロディオラを含むサプリをオススメしたところ、2ヶ月後、吹き出物が改善したのはもちろん、「夫婦仲もよくなって」と僕も本人も思いもよらないオマケがあった。
根本がよくなるから、それに伴って他の不調もいろいろ治るっていう、こういうのが本当の治療だと思うんよね。

映画

2018.8.17

ようやく『万引き家族』を見てきた。
安藤サクラって女優、全然知らなかったんだけど、すごい演技で印象に残った。
演技というか、自然体な感じで、映画じゃなくてドキュメンタリー見てる気分になった。監督の采配が当たったハマり役、ということだろう。
最後、警察の取調べを受けているとき、しばらく彼女のアップが映る。「あなたのこと、何て呼んでたんですか。ママ?お母さん?」と婦警が尋ねる。
髪かきあげながら、しばらく答えない。ようやく出てきた言葉が「何だろうね」。目に涙浮かべながら、さらにもう一度、「何だろうね」。
このシーンにはしびれたなぁ。
何かこっちまで泣きそうになったよ。いや俺みたいなおっさんが汚い涙流したからって何いうことないねんけど、見てると自然に目が熱くなってきたっていう感じ。

タイトルが示す通り、社会のはみ出し者みたいな人たちが寄せ集まってできた家族(のようなもの)が、この映画のテーマだ。
万引きしたり風俗に勤めたり、みんなご立派なことをしてるとは言い難い人たちなんだけど、彼ら、血の繋がりはないのに本当の家族以上に家族のようで、実に仲良くやっている。
あることをきっかけに一家の犯罪がすべて、警察やマスコミに露呈する。取調べ中、刑事が一家の父親的立場の男(リリー・フランキー)に、子供に万引きをさせていたことの非をなじる。
一般の感覚では、子供に万引きさせるなんて言語道断、ということになるのは当然だが、ここまで映画を追ってきた観客には、家族側の気持ちが痛いほどわかる。
むしろ刑事の説く正論が、何とも空疎に聞こえる。
確かにろくでもないことをしている家族だが、それより何より、この家族には愛があるんだ、ということが、警察には伝わらない。

もちろん、この映画のメッセージは、貧困者による反社会的行為を擁護することではない。映画は、ただ、そういう家族がいるということを淡々と提示しているだけで、その行為の善悪について、安易に答えを出すことはしていない。
答えはこの映画を見た人がそれぞれに見つけていくしかないということだろう。

医者として、社会の生み出すこのような矛盾に直面することがある。
生活保護家庭の患者と接することもあれば、虐待を受けた児童の心のケアに当たることもある。
社会への不適応は、周囲の環境のせいか、本人の努力不足のせいか。
理由はそれぞれだが、こういう患者に出会ったときにいつも感じるのは、無力感である。
多くの場合、答えは、出ない。
僕ができることは、話に耳を傾け、共感することだけだ。
問いを突きつけられて、答えあぐねて、かろうじて出てきたのが、「何だろうね」。
あの女優の言葉は、臨床現場で感じる僕の思いそのもののようにも思える。

ラーメン

2018.8.16

「どこのラーメン屋も化学調味料てんこ盛りだって?ちょっと待ってくれ、それは違う。少なくとも、俺はその反例を知っている。
もう10年以上前のことだが、ラーメン屋でバイトしていたことがある。
2年以上そこで働いて、豚骨ラーメンのダシのとり方から、醤油ラーメンの作り方まで、いろんなことを現場で見てきた俺が断言するが、少なくともそこの店では化学調味料なんて使っていなかった。
そもそもそこの店長は、フランス料理を勉強してきた人で、流れ流れてラーメン屋を開業することになったという、ちょっと変わった経歴の人だった。
ダシやソースには強いこだわりを持っていたから、味の素のような「魔法の粉」を入れて、はい、味付け完了、みたいな手抜き料理は、絶対にプライドが許さない人だった。
なるほど、365日ラーメンを食べ続けてブログを書いている『ラーメン評論家』なる人物が、みんな早死にしていることは俺も聞いたことがある。
仮に化学調味料が使われていなくても、麺はおそらくアメリカ産の遺伝子組み換え小麦だろうし、麺に含まれているかんすいが体に悪いと言われていることも知っている。
しかし、こと味付けに関しては、俺の勤めていたラーメン屋の店長は、一切の妥協をしなかった。
化学調味料に頼らないで豚骨ラーメンを作ることが、どれほど大変なことか、想像したことがあるだろうか?
まず、朝の6時に仕込みを始める。豚骨(ゲンコツ)を、大鍋に入れてぐつぐつと30分ほど煮る。これだけでダシが出る?とんでもない。まだまだこれからだよ。
30分ほど煮たらお湯を捨て、ゲンコツを水にさらす。そしてハンマーで砕く。再び大鍋に入れて、強火で4時間、しっかり煮る。水が減ってきたら、足してやる。
放置していると底が焦げ付くから、時々かき混ぜる。そのときの豚のにおいと湯気の熱気がものすごくてね、体に豚の脂のにおいがしみつくし、全身は汗だくになる。
骨髄が溶けてなくなるぐらいになると、ようやくおいしいダシの完成だ。これで作ったラーメンのうまいことといったら、他に比べようがない。

豚骨ラーメンを作るというのは、本来これぐらい大変なことであるはずなんだ。
でも、世の中に豚骨ラーメンを食わせる店は山ほどあるが、本当に豚骨から煮出してダシをとっている店がどれほどあるか。今やほとんど皆無かもしれない。
それは化学調味料の進歩のおかげだよ。ここ10年ほどで、やたらとラーメン屋の数が増えたと思わないか。
それは、料理人が、ダシをとる手間から解放されて、ラーメン屋を開業する敷居が低くなったからだ。
朝から何時間もかけて仕込むなんていう手間をかけないで、魔法の粉を使って一瞬で同じような味を再現できるとしたら、どこの誰がわざわざそんな苦労をするだろう。
ほとんどの客は、化学調味料を使おうが本物の豚骨スープを使おうが、違いの分からない味ボケなんだ。苦労するだけムダというものだ。
実際、僕がかつて勤務していたラーメン屋も、今は豚骨ラーメンをやっていない。
今にして思えばすごいのは、あれだけ苦労して作っていた豚骨ラーメン、あの店では650円で出していた。
作る苦労を知っている俺からすれば、破格だよ。倍の1300円とってもいいぐらいだと思う。
でも店長、「ラーメンは大衆食で、安く食べられるべきだ」っていう妙なこだわりがあって、値上げすることを自分に許せなかった。
店長ももう年だし、バイトの子も豚骨ラーメンを作る重労働を嫌がるし、かといって、店長は職人気質の人だから、化学調味料を使った「豚骨」風ラーメンを出す気はない。
それで豚骨ラーメンから一切手を引いてしまった。
味噌ラーメンや醤油ラーメンは今もやっているけどね。あごや昆布からとったダシを使ってるよ」

今日、高砂市に行く車中、ごうちゃんから聞いた話。
ラーメンというのは、本来作るのにもっと時間と手間のかかる料理だった、という。化学調味料の技術が進歩するまでは。
問題なのは、化学調味料の有害性を、ほとんど誰も知らないことだと思う。ラーメン屋の常連客のなかに、即席のおいしさと引き換えに健康を犠牲にしているんだという意識のある人はあまりいないだろう。
知っててなおラーメンを食べ続けるのは、その人の生き方の問題だからそれでいいとして、少なくとも義務教育のどこかの段階で、化学調味料の有害性はきっちり教えておくべきだと思うんだよなぁ。

今日の昼は、ものすごく久しぶり(多分、数年ぶりとか)に、ラーメンを食べた。
文脈的には、ごうちゃんのかつて勤めていたラーメン屋に行きたかったところだけど、いろいろな都合で、化学調味料てんこ盛りの、いわゆる普通のラーメン屋に行った。
食べたのが昼12時。で、今、この文章を書いているのが18時なんだけど、いまだにお腹にラーメンが残ってて、胃がムッとしている。
「ごうちゃん、お腹、まだムッとしてない?」
「うん、してる。全然食欲ない」
と言いながらも、ごうちゃん、参加したくもない会社の飲み会に向かっていった。サラリーマンはつらいのう。

アダプトゲン

2018.8.15

ハンス・セリエが「ストレス」という概念を提唱して以後、この言葉は医学界のみならず、広く一般社会でも使われるようになった。
日本語の中にもすっかり溶け込んでいるから、もしも「純粋な日本語を取り戻そう」なんていう英語追放運動が起こったとしたら、きっと不便なことになるだろう。
「心労」とか「緊張」、「疲労」というのとは、ちょっと意味がずれるしね。

セリエは実験動物にいろいろなストレス(寒冷刺激などの物理的刺激、薬品などの化学的刺激、炎症などの化学的刺激、怒り、悲しみなどの心理的刺激)を与えて、その反応を観察した。
共通して見られたのは「副腎皮質の腫脹、胸腺の萎縮、胃・十二指腸潰瘍」といった症状で、有害な刺激に対する生体のこのような反応を「適応症候群(Adaptation Syndrome)」と名付けた。

セリエの発表する一連のストレス学説は世界中の研究者を刺激し、以後、ストレスの研究が様々な方面から進んだが、特にソ連は彼の研究に大いにインスパイアされ、独自にストレスの研究を始めた。
しかし、時は米ソ二大大国の冷戦のさなかである。
ソ連の学者たちは見事な研究成果を上げたのだが、それが西側諸国に大々的に報じられることはなかった。
学問の世界は、各国が成果を発表し合い、刺激し合って、成長していくものだが、冷戦下において、これは当てはまらなかった。
ソ連は自由な西側で発表される学問成果の蜜を吸収するものの、自国での研究成果は秘匿し、冷戦下の戦況を少しでも優位に進めようとした。

ソ連の研究テーマは、まず「いかにしてストレスに強い兵士を作るか」ということだった。
戦場では予想外のことが起こるのが常である。思いもよらぬ刺激に対して、簡単に傷むことなく、粛々と任務を遂行するタフな兵士を作りたい。
宇宙の無重力状態のような、人類がその進化の過程で経験していないような刺激に対しても、見事に適応する兵士を作りたい。そのためにはどうすればいいか。
身体的・精神的ストレスに対して兵士をタフにする、そういう食品なり栄養素なりがないものだろうか。
こういう場合に研究者が参考にするのは、古典的な医学文献であり、文化人類学的なフィールドワークである。
まず彼らは、漢方で重用される朝鮮人参の薬効に注目し、動物実験で抗ストレス作用(血中副腎皮質ホルモン濃度の低下、ATP産生の向上など)を確認した。
ソ連の研究者はこうした作用を持つ天然の薬草のことを、特に、アダプトゲン(適応を生み出すもの)と呼んだ。
こうした実験により、エレウテロ、シサンドラ、ロディオラなど、様々なハーブにアダプトゲン特性が確認された。

ソ連にとって、オリンピックは共産主義の優越性を世界中にアピールする格好の舞台だった。メダルの獲得数で憎き敵国アメリカを抑えて上回ることは、ソ連の至上命題だった。
国家主導でオリンピック選手の養成チームが組織され、当時秘密裏に研究が進んでいたアダプトゲンも、当然選手たちに用いられた。
アダプトゲンは天然のハーブであるため、当然ドーピングには引っかからない。おまけにドーピング薬物にしばしば付随する副作用自体、そもそも存在しない。
ただアスリートの運動能力を高め、しかも彼らをより一層健康にする、すばらしいハーブ。それがアダプトゲンの作用だった。
実際にメダルの獲得数を比較してみよう。
1972年ミュンヘンオリンピックで、ソ連は金メダルを50個(銀27個、銅22個、合計99個)獲得したのに対し、アメリカは金33個(銀31個、銅30個、合計94個)と、アメリカを上回った。
1976年モントリオールオリンピックでは、ソ連は金49個(銀41個、銅35個、合計125個)、アメリカは金34個(銀35個、銅25個、合計94個)と、やはりアメリカを圧倒した。

ソ連で行われていたアダプトゲンの研究が西側に知られるようになったのは、冷戦が終わってからのことである。
ソ連によるアダプトゲン研究を主導したZakir Ramazanov博士はソ連崩壊後、アメリカに亡命したが、その際、機密文書とされたアダプトゲンの研究成果を持ち出し、広く公開した。
文書の多くは1970年代に行われたアダプトゲン研究についてのものだった。アダプトゲンの研究は「極寒のシベリアにおいても、酷暑のアフガニスタンにおいても、冷静沈着に任務を遂行する兵士を育てる」ためだったという。
(https://www.nationalgeographic.com/people-and-culture/food/the-plate/2016/08/long-before-doping-scandals–russians-were-studying-performance-/)

以上が、アダプトゲンの歴史についてのざっくりとしたまとめです。
オーソモレキュラー栄養療法では、アダプトゲンのことを特に言及していないんだけど、これって不思議だ。ポーリングもホッファーもアダプトゲンのこと、知ってたと思うんだけど、どう思っていたのかな。
ソール先生に会ったときに聞けばよかったな。「アダプトゲンのこと、どう思いますか」って。
まさか「あれは憎き共産主義者による研究成果だから、僕はあんなの、断じて認めない」なんてことは言わないと思う笑
当たり前だけど、どこの誰が有効性を確認しようと、効くものは効く。
アダプトゲンというのは、本来の目的は、強い兵士(宇宙飛行士やオリンピック選手も含め)を育てる目的で研究が進んだものだけど、これって要するに、健康な人をさらにもう一段階上の健康に引き上げる、ということだし、さらに言うと、病気の人を健康にしてくれる、ということでもあるだろう。
だから、病気治療に対して、アダプトゲンを使わない手はないと思う。
僕は、とにかく、「病気を治したもん勝ち」だと思ってるから、エビデンスとして有効性が確認されているものは何でも使います。当然、アダプトゲンも患者に勧めているし、患者の感想を聞いて手ごたえを感じている。
というか、実は僕自身も飲んでて、効果を実感している。
飲み始めて、まず思うのが、疲れにくくなった、ということ。別に疲れやすいなんて自覚症状のなかった僕でも効果を感じたぐらいだから、病気の人にはもっと効くと思う。
手始めに、ロディオラ120㎎を朝に1錠、あたりから始めてみるといいよ。
ただし、メーカーによって質の差が大きいから、信頼できるメーカーのものを選ぼう。

須磨

2018.8.14

盆で実家に帰っている。
て、いうても、別に元町から明石に帰るだけだから、電車で30分の話。帰省ってほど大したものじゃない。
実家には父と老いた猫が二匹いるだけ。
父とはちょくちょく会ってるから、実家に帰ったのは猫に会いに帰ったようなもの。
久しぶりに猫をなでたら、もう実家ですることはなくなってしまった。
実家は確かに落ち着くけど、それだけなんだよね。
自分の部屋には昔読んだ本とか書いてた日記とか、山ほどあるんだけど、僕の昔の抜け殻みたい。僕を成長させてくれる新しい刺激とか、ここには皆無なんよね。
ときどき充電しに帰ってくる、ぐらいでちょうどいい。

盆ということで、母の菩提のある須磨寺に行き、その後、久しぶりに須磨海岸に行った。

ものすごく混んでた。
いかにもナンパ待ち、って感じの姉ちゃんもたくさんいた。
高校生のときには友人と連れ立って女の子に声をかけたりしたけど、もうそういうの、できひんわ笑。あれから二十年かぁ。
さっきまでは寺にいて、坊主のお経の声と焼香のにおいに包まれていたのに、今や海水浴客の若い騒ぎ声と海のにおいに囲まれてる。
時間の流れとか、空間の対比のなかに、何とも言えない諸行無常を感じた。
生と死は、須磨寺と須磨海岸くらいの距離しかないんちゃうかな。
二十年前も今もナンパ待ちの姉ちゃんがおるように、二十年後もその風景は変わらへんのやろうな。
で、かつての若者はおっさんおばさんになって、段々人生からフェードアウトしていくんやろうな。
そういうこと思うとね、何か、せつないような気持ちになったんよ。

とまぁ、感傷にひたっていても切りがないね。
前向きに行きましょう。
老いや死は、そんなに恐れることもないよ。
栄養療法を実践している人は皆、健康な老いを迎えることができます。
さすがに不老不死、とまでは行かないけど笑、抗老化作用によって、「人生からのフェードアウト」を遅らせてくれて、いつまでも若々しくいられます。

今、この海岸にはウン百人っていう人がいるわけだけど、みんながみんな、適切な日焼け対策をしてるわけじゃないと思う。
せいぜい、体によからぬ添加物てんこ盛りの日焼け止めクリームを塗ってるくらいだろう。皮膚癌の原因は太陽というよりはむしろ、粗悪な日焼け止めクリームじゃないか、って説もあるよ。
この炎天下で一日を過ごせば、翌日にはいい感じに黒く日焼けする人もいれば、真っ赤になってヤケドのようになる人もいる。
この差を分けるものは何か。
これは血中の抗酸化物質濃度の違いによります。抗酸化力の高い人は日焼けに対してもタフだ。
逆に抗酸化力の弱い人は、海水浴に行く数日前に(というか理想的には、普段から毎日の習慣として)、抗酸化作用のあるサプリをとっておくといいよ。具体的には、ビタミンE、C、コエンザイムQ10、αリポ酸、βカロテン、亜鉛、ビタミンDといったところだ。
ビタミンEやDは事後的にとってもいい。日焼け後1時間以内に摂取したビタミンDには、抗炎症作用が確認されている。(https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0022202X17315580)
ただ、脂溶性ビタミンは水溶性ビタミンに比べてメーカー間の質の差異が大きいから、多少お高めでも良質のものを買いましょう。

平敦盛が熊谷直実に首をはねられたとき、彼は17歳の美少年だった。
そして須磨寺には、敦盛の首塚がある。
そういう意味で、須磨寺は諸行無常の代名詞、平家物語の一節の舞台でもあるんよね。
17歳の美少年のまま壮絶な人生の最期を迎え、歴史に永遠に名前を残すっていう生き方は、これはこれで幸せなことかもしれない。
でも普通の人には、幸か不幸か、そんな人生は与えられていない。徐々に忍び寄る老いを受け入れて生きていかないといけない。
そんな老いの負担を軽減してくれるのが、栄養療法です。使わないと損ですよー。

調和

2018.8.13

「たとえば温清飲(うんせいいん)という漢方薬は、シャクヤク、トウキ、オウゴン、オウバク、オウレン、サンザシ、センキュウを混ぜて作る。
温清飲の配合にさらに、カンゾウ、サイコ、キキョウ、ケイガイをプラスしたのが、荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)。
つまり、荊芥連翹湯のほうがたくさん生薬が入っているわけだけど、その分、効能も強いかっていうと、別にそういうことはない。
効く効かないは、患者の証次第であって、生薬の種類の多さで決まるんじゃない。
こういうのを、僕ら漢方医は、切れ味、と表現する。
少数精鋭の生薬はナイフのような鋭さがあるが、一方、多種類の生薬は鈍器のようにじんわりと効く。
西洋薬は前者の方法論を極限まで高めたものだという見方もできる。
たとえば柳の樹皮に解熱鎮痛作用があることは古代ギリシャの時代から知られていたが、19世紀になってそこからアセチルサリチル酸が合成され、アスピリンができた。
さらに、化学的な組成を把握することで、実際に柳から抽出する必要さえなくなった。
こうしてアスピリンは、薬と言えば生薬やハーブが当たり前だった時代に、世界で初めて人工的に合成された最初の薬になった。
痛みを手っ取り早くなくしたいときには、アスピリンが重宝するだろうが、認識しておくべきは、その副作用だ。
人間の体は陰と陽、気・血・水、五臓六腑の絶妙な調和のもとに成り立っている。そこに、あまりにも切れ味の鋭い薬を入れると、バランスが崩れてしまう。
なるほど、痛みに関しては緩和されるかもしれないが、その他の面で何らかの悪影響が出ることは覚悟しておかないといけない。
かといって、生薬の種類が多ければ多いほどいいのか、というとそんな単純な話じゃない。
たくさんの食材を使った料理が必ずしもおいしいとは限らないのと同じことだ。
必要にして十分な生薬を使った漢方薬を選択する。それが僕ら漢方医の腕の見せ所だよ」

この話を聞いたときに、何か示唆的なものを感じた。
たとえば飲み会のとき、明るい人をたくさん呼んだらそれだけ楽しくなるかというと、意外に大して盛り上がらなかったりする。
気心知れた二人、三人ぐらいで深い話をするほうが余程楽しいということは多々あることだ。
楽しさを高めるためには、ここでもやはり、調和が大事ということだろう。

ダウンタウンの松本人志がある番組で語っていたエピソード。
小学生の頃、ボケの松本、ツッコミの伊藤、いじられ役の森岡、の三人でトリオ漫才をやっていた。漫才をやるたびに、クラスの皆を大爆笑させていた。
特に松本と伊藤の笑いのセンスはずば抜けていた。「俺ら二人だけのほうがよくない?森岡、全然おもろいこと言わへんしいじられてるだけやから、いらんやろ」
そこで、トリオではなく、松本と伊藤のコンビで漫才をした。
ところが、意外や意外、全くウケない。
ここに至って、二人はようやく気付いた。一見何もしてないかのように見える森岡だったが、松本と伊藤を生かす絶妙の仕事をしていたのだ。
おもしろい奴だけが集まっても、笑いは生まれない。笑いは、調和のもとに成り立っているということを、この経験を通じて松本は学んだという。

患者の治療に際して、漢方=東洋医学、手術=西洋医学、という公式にとらわれる必要はまったくない。
漢方医院の先生が、「これはうちには手が負えない。外科の仕事だ」と外科に紹介することは当然あるだろうし、逆に、外科の先生が漢方処方を使うことも全然あっていいと思う。
ある外科の先生、手術後にしつこいしゃっくりに悩む患者がいることに気付いた。
おそらくは開腹によって横隔膜に分布する迷走神経に何らかの影響があって、そのせいでしゃっくりが出ているのだろうが、こうしたしゃっくりの訴えに対して、西洋医学はなす術がない。
そこで先生、東洋医学的なアプローチを試みた。半夏厚朴湯、芍薬甘草湯など、いろいろ試したが、最も効いたのが柿蒂湯(していとう)だった。(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjphcs2001/27/1/27_1_29/_article/-char/ja)
柿の蒂(へた)、生姜、クローブの入った漢方だが、自分で柿のへたを集めてそれをお茶のように煮出しても、十分効果が出る。
外科手術という外からの強い侵襲の後遺症に対しては、切れ味の良い単剤の生薬で対応する、というのが、うまいバランスのとり方ということかもしれない。

調和の必要性というのは、僕らが気付いているいないにかかわらず、生活のあちこちで現れているのだと思う。
うまい調和は互いを高め合うだろうが、不調和は互いを相殺してしまうかもしれない。
一般に、調和の高め方には公式はなくて、自分なりに試行錯誤していくしかないと思う。
しかし、こと漢方薬に関しては、調和を高める先人の知恵が凝縮されている。
どの患者にどの漢方薬を適応するか、という判断は医療者にゆだねられているが、そこの判断が見事にはまれば、患者は大きな利益を得るはずだ。

レーダー

2018.8.12

目にいい食材、と聞いて真っ先に何が思い浮かんだ?
そう、ブルーベリーだろう。
しかし『目にいい』とは、ずいぶんアバウト表現だね。具体的にどんなふうに『目にいい』のか。
おそらくは、眼精疲労や近視に有効、といった程度の意味だろうけど、実はこれらの症状への有効性を示すエビデンスは存在しない。
唯一、ブルーベリーの品種の一つであるビルベリーには、網膜症に対する有効性が示唆されているが、視力改善に対する有効性は確認されていない。(https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0039625703001280)
ブルーベリーの成分にはアントシアニンが多く含まれている。アントシアニンは網膜上に存在するロドプシンという光感知タンパク質の再合成に関与し、このロドプシンが分解・再合成を繰り返すことで「ものが見える」という状態が維持されている。そこで、アントシアニンを積極的に摂取することにより、目の健康を維持できる、というのが、ブルーベリーが「目にいい」ことの理屈なんだけど、、、
目の不調といったって、全部が全部、アントシアニン不足によるロドプシンの分解・再合成障害にのみ起因するものじゃない。事実、二重盲検を行っても有効性は確認できなかった。
もちろん、ブルーベリーは体に悪いものではないだろうから、毎日適量食べる分には何ら問題はない。ただし、目の健康のために食べるのであれば、期待した効能は望めない、ということだ。

では、なぜ、ブルーベリーが目にいい、という俗説が生まれたのだろうか。
これにはれっきとした由来がある。
1941年、イギリス軍はレーダーの開発に成功した。レーダーはドイツ軍によるイギリス本土空襲に対する迎撃に見事な威力を発揮し、夜の闇に紛れて空爆しようとするドイツ空軍の戦闘機が、次々に撃墜された。
こうして、レーダーはイギリス本土を守るのに大いに役立ったわけだが、このレーダーの存在は、当然のことながら、当時のイギリス軍にとって絶対漏れてはならない軍事機密だった。
ドイツ軍もバカではない。なぜ急に、我が軍の戦闘機が撃墜されるようになったのか。その原因を必死に考える。
まさか、エニグマが解読された?エニグマ経由で送信する情報(爆撃の場所と日時等)がイギリスに筒抜けだったとしたら?
いや、それだけは決してありえない。1京通りの暗号パターンを解読できる方法はこの世に存在しない。何か他の方法で、我が軍の行動を探知しているはずだ。
ドイツ軍はスパイを潜り込ませてまで、何とかイギリス軍の機密をつかもうとする。

そこでイギリス側は、情報戦を仕掛けた。
『どうもイギリスの迎撃部隊では、スナイパー養成のため、ブルーベリーを大量に食べさせているらしい。ブルーベリーのおかげで夜目のきく腕利きの狙撃兵が、ドイツの戦闘機をバタバタと撃ち落としているようだ』
さりげなく流す情報に、ドイツ側、見事に食いついた。
撃墜率の増加は兵士の夜間視力改善によるものと軍上層部に判断され、ついに戦後になるまで、ドイツ側はレーダーの存在など思いもしなかった。
さらに、エニグマが解読されていたと明かされたのは、ようやく1970年代になってからのことだった。

終戦。
ひとまず訪れた平穏のときに、ドイツの研究者たち、先の戦争を振り返る。戦時中には忙しさのあまり見えなかったものを、今、改めて見つめなおし、自国の敗戦を彼らなりに分析しようとする。
『スナイパーの夜間視力向上のために、ブルーベリーを食べさせたという話があった。そもそもあれは本当なのか』
二重盲検を行う。4週間もすれば、結果が出る。有意差なし。
研究者たち、情報戦を仕掛けられたのだとそのとき初めて気付き、歯噛みして悔しがった。
しかし、今や戦後。平和の時代である。彼らの悔しさは、別の方向への情熱に向かった。
「ブルーベリーというバッタもんをつかまされた我々ではあるが、本当に目にいい食材は何なのか。それを究明しようじゃないか」

こういうとき、学者は世界中の文献や食生活を調べる。
彼ら、東洋医学の古い文献に、キク科植物の花弁が『肝を強くし、目を陽にす』との記述を見つけた。ここに研究の端緒を見出した彼ら、ついにキク科植物(マリーゴールド)から抽出した成分、ルテインが見事に視力を回復させることを証明した。
どうだい、壮大な話だと思わないか。レーダーの存在を秘匿しようとするイギリス軍のデマから始まった情報戦に対して、一度騙されはしたものの、その屈辱をバネに、ドイツは科学的な手法で見事に『本当に目にいい食材』を明らかにして見せた、という話だ。ウソからでたマコト、という感じだね。
だから、ブルーベリーが目にいいというのは、ウソなんだよ。
ブルーベリーを含有するサプリを扱う国内最大手『わかさ生活』のホームページを読んでごらん。どこを読んでも、「ブルーベリーが目にいい」「ブルーベリーが視力改善にいい」というフレーズは出てこないだろう。
というか、ホームページの宣伝文句だけ読んでいると、この会社の主力商品『ブルーベリーアイ』が一体何に効くのか、いまいちピンとこない。
「目にいい」って言っちゃうと、景品表示法とか、何か法律に引っかかるんだろうね。
『ブルーベリーアイ』っていう、何となく目によさそうな商品名で、はっきり効能はうたわずに、何となくのイメージで売る。
これはこれでうまい商売戦略だと思う。体に悪いもんじゃないしね。
プラセボ効果でもいい。信じる者は救われる、で、治した者勝ち、っていうのも全然ありだと思う。
個人的には、メグスリノキ、ケツメイシ、アイブライト、ビタミンE、Cなんかも併せて使えばもっと効果が出ると思う。要は抗酸化なんだよね。

網膜症

2018.8.11

今日も姉とごうちゃんと一緒。
盆ということで、養父にあるごうちゃんのご先祖の眠るお墓にご挨拶に。
その後、神崎郡にある古民家を改築したレストランで食事。
さすがごうちゃん、いつも通りの変顔。

その後、越知川というとてもきれいな清流で遊んだ。
川面を覗くと、アユがたくさんいた。


スイカを食べ過ぎたせいで、帰りにやたらと小便が近くなった。
トイレに何度か寄ってもらいつつの帰り道の車中、ごうちゃん、
「ほら、暗順応、明順応ってあるでしょ。たとえばこうやって高速を運転してて、トンネルに入れば、目はその暗さに対応するし、トンネルを抜けたときには明るさに対応する。でも最近、その調節がうまいことできてないねん。普通より時間がかかる感じ。なんでやろ?
いや、視力は何も問題ないよ。目は普通の人より断然いいほう。
何かオススメのサプリメントある?」

こういうことを尋ねられたとき、いわゆる目にいいサプリメントをオススメすることはできるんだけど、たし算よりはまず引き算をすべきことが多い。
つまり、現時点の生活習慣、食習慣のなかに、目に良からぬことをやってる可能性がないかどうか、というのをまず聞きたいところ。
たとえば外食ばかりしていて、化学調味料満載の食事を摂り続けると、目にどのような影響が現れるか。ネズミで実験をすると、網膜の形態と機能に異常が現れたという。(https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0014483502920178?via%3Dihub)
著者は、欧米よりもアジアに緑内障が多いのは味の素の消費量と相関してるのではないか、としているけど、おもしろい指摘だと思う。一般的な眼科の先生で、緑内障の原因として、MSGの過剰摂取を疑う人はまずいないだろう。でも、動物実験の結果からは、絶対鑑別にあげるべきなんだけどね。
あと、人工甘味料もよくないよ。たとえばアスパルテームは網膜症の原因になる。機序としては、アスパルテームに含まれるアスパラギン酸の神経興奮毒性とか、やはりアスパルテームに含まれるメタノールがホルムアルデヒドに変換されて、これが視神経に悪影響を及ぼしている可能性が考えられる。(https://www.nature.com/articles/1602866)

ごうちゃんはバッチリこの条件に当てはまっている。独り身で外食することが多いし、お客さん相手の仕事柄、口臭が絶対あったらダメだから、フリスクとかガムなんかの口中清涼剤(人工甘味料満載)をしょっちゅう食べている。

こういう人には、まず引き算、というのが基本。
外食に慣れた人にとって自炊を始めることは難しいだろうけど、フリスクをやめることはまだしもできるだろうから、そのへんから始めることを勧める。
同時に、目にいいサプリメントをオススメすることもできて、それは確かにお助けになるかもしれないけど、生活習慣の改善がないのに症状自体が軽快してしまうことは、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるようなものだ。原因の除去がなくては根治には至らないから、長い目で見ると結局本人のプラスにならないと思う。
だから、まず、引き算。
目にどのような栄養素が有効かということについては、また後日ね。

リンパ腫

2018.8.10

「水戸黄門の話ね、あれ、わかるよ。お約束の様式美、といったものだね。
人生の一時期、暴れん坊将軍を毎日2話ずつ見てた頃があるんだけど(←なんで笑)、この経験を通じて、様式美の何たるかを知ったと思う。
毎回見てると、話の流れのパターンが数種類しかないことに気付く。
で、今日の脚本家は誰々だな、みたいなことまで察しがつく。
パターンが読めるからつまらない、ではなく、パターンが読めるからこそ、何とも言えない愛着がわくんだ。
古くはドリフ、今なら吉本新喜劇もそうだろう。
志村の後ろに人が通っても気付かないのがおもしろいし、ここでタライが降ってくるって知っててもおもしろい。「志村、うしろー」ってね、今や伝説の定番フレーズだ。
新喜劇で、辻本がしげぞう役で出てたら、「許してやったらどうや」っていうギャグが出るだろう、そのギャグが出てくるとしたら、話の流れはこのパターンだろう、みたいなね。
俳句は、五七五というたった17文字のなかに、季語や切れを入れる制約まであるのに、表現形式としてほとんど無限の可能性を秘めている。同じように、劇の進行パターンが決まっているからといって、同じ劇は一つとしてない。むしろ、いつも同じ大枠のなかで、その回特有の違いを楽しむという、通な楽しみ方をする人もいるだろう」
友人からのフィードバック。
「新喜劇=時代劇」説とは、なかなか新鮮だ。
新喜劇の話を聞いて、ふと、小藪のことを思い出した。いつもは人を笑わせる話をする彼が、笑いと真逆の話をするものだから、印象に残った。
「僕のオカンは決して弱音を吐かない、さっぱりした人なんだけど、あるとき僕に電話があった。『一応言うとくけど、私入院することになった』と。僕はこのとき、『あ、これ、危ないな』と思った。一人で勝手に病院行って、さっさと治してしまうのがいつものオカンだ。僕にわざわざ電話をよこすなんて、おかしい。そこで僕は父に電話した。『オカン、死ぬんちゃう?』と聞いたら、オヤジ、『うん、死ぬで。悪性リンパ腫や』
それから闘病生活が一年ほど続いた。最後の頃には痛みがひどくて、モルヒネで何とか平穏を保っているような有様だった。
あるとき、意識朦朧としたオカンが何か言う。
「え、なんて?」
また何か言う。でもうまく聞き取れない。何度も聞き直して、ようやく、「ヘリコプター」と言っているらしいことがわかった。
その瞬間、僕はハッとした。子供の頃の記憶がよみがえった。
僕が小学生の頃、ある催し物で、「大阪上空を一周 ヘリコプター搭乗体験」というのをやっていた。乗ってみたいなと思ったけど、僕におもちゃとかクリスマスプレゼントとか買ってくれないオカンだったし、確か搭乗料が五千円とか、けっこう高かったから、僕のほうからは「乗りたい」なんてねだったりしなかったんだけど、「あんた、乗り」って、オカンのほうから勧めてくれた。僕は大はしゃぎで、空からの眺めを楽しんだ。「みんなが買ってもらって持ってるようなおもちゃはいらんねん。ヘリコプターなんか、普通に生きてても一生乗る機会ないで。あんたには、誰もが経験してないようなことを経験してほしい。」オカンは僕をそういうふうに育ててくれた。
生と死の境界線上にいるオカンの口から出た言葉が、「ヘリコプター」だった。
子供の僕にとってヘリコプターに乗れたことは、ワクワクする経験だったことは間違いないけど、同時に、オカンにとっても、我が子にそういう経験をさせることは、自分の誇りだったのだ。死の間際になって、自分が母から深い愛情を注がれていたことに、僕はようやく気付いた。
ふと、もうすぐ死にそうなオカンが「プリン食べたい」とつぶやいた。最後の親孝行の機会だ。僕はすぐ病院を飛び出して、バイクに乗って、百貨店に向かった。もう閉店の時間だったけど、サングラスとマスクを外せば、大阪だからみんな僕を知っているから、何とかお願いして、かろうじてプリンを買うことができた。病院へバイクを走らせながら、何とか生きていてくれ、と祈った。病室に着くと、生きていたが、プリンをスプーンですくって口元に運んでも、もう食べる元気もなく、そのまま息を引き取った。
オカンが好きだったモロゾフのプリン。好きだったことは知っていたが、僕が自分から買っていったことは一度もなかった。最後に買って行ったときには、食べてもらえなかった。だから僕は、後輩とかに言うんです。親孝行は親が生きてるうちにしとかなあかんぞ、と」

こういう話を聞いても、リンパ腫というところに引っかかるのが医者の悲しい悪癖で笑、お母さん、生活習慣に偏りはなかったかな、とか考える。
電磁波がリンパ腫の原因であることはマウスを使った実験(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/8697452)や疫学的にも明らかで、たとえば高圧送電線の近くに住むことは健康へのリスクだよ。
外国だと人の立ち入りが禁止されるようなレベルの電磁波が検出される地域にも、普通に住宅街があるのがこの国土の狭い日本だからね。家賃が妙に安いアパート物件とか見付けても、飛びついて契約せずに、周囲に高圧送電線とかがないか確認しよう。安い家賃のために健康を失っては割に合わないよ。

プリンについては、僕はそんなに共感しないな。
僕の母は、もともとは甘いものはむしろ苦手なほうだったのに、 癌の転移に全身をむしばまれてからは、別人のように甘いお菓子をむさぼっていた。癌細胞は成長に糖質を要求する。母はその「体の声」に答えて、糖質をガンガン供給し、癌を肥え太らせていたわけだ。
「助けてあげたい。でもそのためには、この甘いもののドカ食いをやめさせないといけない」と思う一方で、「もう母は助からないだろう。最後くらいは好きなものを好きなだけ食べさせるのも、子としての情か」との思いもあって揺れたが、結局は現状維持が勝を占めた。僕はあえて甘いものをやめさせることをしなかった。

小藪の話には続きがある。
「モロゾフのプリンって、安物のプラスチックじゃなくて、ちょっとオシャレなガラス瓶に入ってるから、食べ終わった後も、洗って、めんつゆ入れる瓶として使ったりする。オカンがモロゾフ買ってくるたびに、捨てられないで、どんどんたまっていく。子供ながらに貧乏くさいなと思ってた。死後に残った大量のモロゾフの空き容器が、オカンの忘れ形見のようだった。」
僕の母の死後に残ったのは、大量のお菓子のストックだった。
今にして思うのは、当時僕がすべきことは、糖質摂取を放任することではなくて、ビタミンCの大量投与だった。
グルコースの分子式と、ビタミンCの分子式を見比べてみるといい。よく似ている。
似てはいるが、がん細胞に対するその作用は正反対で、糖質が癌細胞の増殖を促す一方、ビタミンCは癌細胞を破壊する。
死んだ人に、「こうしてあげるべきだった」の思いは、もはやどこにも行き場がない。同じ悲劇を繰り返さないよう、今日も僕は、患者にビタミンCをオススメしている。

方針

2018.8.9

院長ブログ、書くからには、大人の鑑賞に堪えるような文章を書きたいと思っている。
読んでくれた人が、ひとつ賢くなるような、ひとつ心が豊かになるような文章。
でもそれは簡単なことじゃない。
そもそもこのブログをやっている目的は、栄養療法のすばらしさを知ってもらうことなんだけど、どの栄養素がどういう病気に効くか、ということを書くだけなら難しくない。
それだけでいいのなら、ネタは無数にある。栄養療法の有効性を示すデータは膨大で、それを1日1論文という形で紹介するだけなら、そんな文章、いくらでも量産できるだろう。
でもそんなのは事実の羅列に過ぎない。
インターネットのあるこのご時世、検索すればすぐ拾えるような情報をここに得々と並べたところで、読者は「ふーん」で終わってしまう。
栄養療法に関する知識はあくまで素材で、この素材をどのように料理して、お客さんにサーブするか。そこが僕の腕の見せ所なんだけど、毎回、生みの苦しみを味わう。
factの寄せ集めは単なる辞書で、辞書はどう頑張ったって詩集にはならない。単なる事実の提示を超えて、いかに真実にまで高めるか。
そこがうまくいけば、「おもしろいブログだね」と言ってもらえるし、失敗すれば、誰も読んでくれなくなるだろう。

「ていうかね、そもそも誰も読んでへんよ、あんたのブログなんか。自意識過剰や。
だいたい、字ぃ多すぎるねん。もっと写真多くしたり、もっと文章を短くして、誰でも気軽に読めるようにしたら?」
姉の意見。
そう、僕は質にこだわりすぎで、確かに自意識過剰かもしれない。オーソモレキュラー栄養療法なんて舌を噛みそうな言葉、普通の人にはなじみのないものなんだから、読んでくれる人には、事実の紹介だけでも十分有益かもしれない。
でも、僕の姉は本とか全然読まない(読めない)人で、読書からではなく人間関係から人生を学んでいこう、っていうスタイルの人だから、まぁ、あくまで参考意見にとどめておこう笑
分かる人にだけ、分かればいい。
僕はそう思っている。
僕がどんな文章を書こうが、姉にはまったく影響を及ぼさないけど、ある程度知的な人には、僕の言葉は確実に届く。届いた結果が、賛同であることもあれば、反発であることもあるだろう。
いずれにせよ、僕はそういう、「分かる人」に向けて、ブログを書こう。
写真と短い文章だけの、いかにもIQ低そうなブログは僕の路線ではなさそうだ。

「ブログね、毎日読んでるよ。でも、ときどき、患者の個人情報に近いような内容があるね。あれはさすがにまずいんじゃないの」
友人のありがたい意見。
そう、誤解を招くといけないので、ここではっきり言っておこう。
僕のブログに出てくる症例的なものは、すべてフィクションです。
もとになった患者は実際にいるかもしれない。
でも、当然、事実の細部は変えているし、個人の特定につながるような情報は出していない。
というか、仮に事実そのものを忠実に描写したとしても、そんなもの、警察の調書みたいに無味乾燥なものになるだろう。
ある事実のかけらに詩を感じたら、そこから想像を膨らませて、真実に近づけていく、というのが僕のやり方だから、僕の描写に合致する患者はこの世に存在しません。

医者と患者の会話に限らず、会話というものはすべて、ごちゃごちゃしてとりとめのないものだ。
文法的に間違った表現は当然あるし、自分の思いを適切に表現する言葉が見つからなくて、とりあえずこの表現で、というような言葉もたくさんある。
話の順番が違っていたり、本当に言いたいことが言えてなかったり、ということもある。
そんな具合に言葉というものは、実に、不完全なものだけど、そんな不完全な言葉で紡ぎだされた会話のなかに、ときには詩が含まれているもので、僕はそういう詩をこそ、僕の言葉でつかまえて表現したいと思う。

って、あんまりえらそうなこと言って、自分でハードル上げてもたら、それこそ文章書けなくなるなぁ笑
できるだけ毎日更新したいとは思ってるんだけど、夜に書こうって思ってたら友人が飲みに誘ってくれたりして書けなくなることもざらにあるし、単純にさぼることもある笑
もっと考察を深めたいところ、僕の力が至らず、単なる「事実の提示」に終始している文章もあるだろう。
あまり期待しないでね笑