院長ブログ

知能と有機ゲルマニウム

2019.10.11

40代女性。3歳の娘を連れて来院した。
「知的障害というわけでもないと思うんですけど、言葉が遅いです。もう4歳になろうかというのに、まだ自分の名前が言えません。
偏食で、食べる量も少ないと思います。お菓子はよく食べるんですけど。
小児科の先生に尿路奇形があると指摘されました。そのせいで尿路感染症にかかりやすいようで、毎日バクタ(抗生剤)を飲んでいます。主治医には『もう少し大きくなったら手術しましょう』と言われています。
何かと病気がちで、一回風邪をひいたらずいぶん長引きます。
夜は寝つきが悪くてなかなか寝てくれないし、寝起きも悪いです。
ここのクリニックは、普通の病院と違って、サプリとかで治してくれるんですよね?
この子に何かお勧めのサプリはありますか?
あと、私も最近何かと調子が悪くて。疲れやすくて、気分の波が激しいです。
仕事は何とかできてますけど、一日が終わるとヘトヘトになります。疲れ切ってるのになかなか寝つけないので、お酒で寝ています。食欲も落ちてます。
私にも何かお勧めのサプリを教えてください」

ふむー、なかなか手強そうなお母さんだ。
「サプリね、もちろんお勧めできますけど、まず何よりも、食事が基本ですからね」と食事指導から始める。
さて、その上でさらにサプリを、ということになれば、何を勧めるか。
採血して栄養状態を把握することが大きなヒントになるけど、お母さんの採血はともかく、三つ四つの子供の採血は気がひける。小児の採血は難しくて、大泣きすることは見えている。この世に一人、また新たな白衣高血圧患者を作るのもなぁ。
採血は別にマストじゃない。問診だけでおおよその”当たり”はつけられるものだ。

・風邪や尿路感染症など、免疫系が弱そうなので、とりあえずビタミンCは最優先で使いたい。

・バクタを使っているということは、腸内細菌は大きなダメージを受けていて、ビタミン産生菌など有用な菌種も大幅に減少しているはず。特にバクタは葉酸の代謝プロセスを阻害することで抗菌性を発揮する。特に葉酸を補う、という形でもいいが、お菓子の多食もあいまってB群全体が不足しているはずだから、天然由来のビタミンB群のサプリを使おう。

・『子供の健全な成長には脂溶性ビタミン』というのがプライス博士の教えだ。特にプライス流は「ビタミンK推し」だ。抗生剤で腸内細菌がダメになっているから自前のK産生が落ちているだろうし、偏食で納豆なんて食べない子だから、Kを補うのはプラスになるだろう。

・『脂溶性ビタミンは協調して働く』という原則もある。Kと一緒に使うなら、断然Dがいい。知的成長にも有益だろう。さらにいうと、脂溶性ビタミンは粉末錠剤よりは液体かジェルカプセルが吸収がいいから、この点も配慮する。

・最後に、忘れちゃいけないのが、有機ゲルマニウム。
以前紹介したように、有機ゲルマニウムが脳神経系の障害(運動障害、てんかん、知的障害など)に効果があることにはエビデンスがあるし、僕も自分の患者でこの効果を確認している。
ADHD傾向のある小学生男児に有機ゲルマニウムやタラの肝油などの知的成長を促進する栄養素を使ったところ、授業中の問題行動がなくなり成績が伸びた。
さらにいうと、この男児は顔つきまで男前になった。口呼吸でポカンとした表情がなくなって、鼻呼吸になって口元が引き締まったし、目力というのか、目元に知性が漂うようになった。

さて、お母さんには何を勧めようか。
・疲労の極みにありながら、眠れない。ストレスによる交感神経の過剰興奮だ。CBDオイルでゆっくり休めるようになるだろう。
・仕事でずっとインドアで日光に当たらないということは、血中ビタミンD濃度も低いはずだから、D/Kもお勧め。
・交感神経優位に起因する代謝低下があるから、赤血球の「破壊と創造」もうまくいっていないはず。疲労感はここが原因だと踏んで、有機ゲルマニウムも勧めよう。子供さんにお出しするのを、お母さんも一緒に摂るといい。食間に、耳かき一杯程度のごく少量でいいからね。
・寝るために酒を飲み始めたとなると、かなり危うい。アルコールの代謝プロセスで消耗するビタミンB1を、ベンフォチアミンで補おう。

さて、1ヶ月後。
来院したお母さん、声に喜びがにじみ出ている。
「娘が急にしゃべるようになりました。言葉が一気に増えた印象です。もちろん、自分の名前も言えるようになりました。
食べる量が増えたし、寝つきもよくなりました。
前回来院したとき以後、バクタをあまり使わないようにしています。それなのに調子がいいです。いつも風邪をしょっちゅうひいてるのに、この1ヶ月はひいていません。
私の調子もいいです。
よく寝れるようになったし、疲れやすさも前ほどではありません。
でも、何より一番驚いたのは、お酒をそんなに飲みたいと思わなくなったこと。お酒は好きなほうだから、会社の飲み会では、同僚にも驚かれるぐらい飲みます。
そんな私なんですけど、最初の乾杯でビールを1杯飲めば『もういいかな』って思うんです。飲もうと思えば飲める。でも、もういいかなって。
不思議です。成人してお酒を飲み始めて以後、こんな感覚になったことはありません。飲むとなったら、飲み疲れるまで飲む、というのが私のスタイルですから。
私、どうしちゃったんだろう、って心配になったくらいです笑」

やはり、と確信を深めた。子供の知的発達には有機ゲルマニウムがてきめんに効く。
お母さんの言葉「バクタを使ってないのに、調子がいい」は論理的に誤りで、正しくは「バクタを使ってないから、調子がいい」である。尿路感染症予防という大義のために、腸内細菌にも大打撃を与える抗生剤は、長く飲み続ける薬じゃない。抗生剤の使用頻度を減らし、それに伴って腸内細菌叢が回復したことで、腸で自前のビタミン産生ができるようになったのだろう。
お母さんに見られた飲酒欲求の消失は、CBDオイルによる衝動性の抑制効果によるところが大きいか。
おおむね想定内の回復ではあるけど、こんなふうに実地に喜びの声を聞くと、やっぱりうれしいな。

Orthomolecular Medicine For Everyone

2019.10.7

哲学者のホワイトヘッドの言葉に「すべての哲学は、プラトンの脚注に過ぎない」というのがある。
哲学という学問は、すでに二千数百年前、古代ギリシャのプラトンにおいて大成されていた。
言葉の本質を喝破し、イデアという概念を提出するなど、プラトンの思想のなかにその後出現する哲学的思考のすべてが含まれている。
だから、たとえばデカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェらの思想さえ、プラトンの思想の単なる脚注レベル、というわけだ。
プラトンに対しては最大限の賛辞ということになるだろうが、その後の偉大な哲学者全員をばっさり切り捨てる格好で、なかなか毒のある表現だ。

ホワイトヘッドのこの言葉にならって、僕はこう言おう。
「すべての栄養療法は、ホッファーの脚注に過ぎない」
ホッファー以後、様々な栄養療法の亜種が出現したし、今も現れ続けている。
「ホッファーにはメチレーションの発想がまったくなかった」
「ホッファーはビタミンKの働きをずいぶん軽視している」
新たな栄養療法の提唱者は、こうしてホッファーを批判する。確かに、彼らのメソッドには、彼らなりの新味や独自性がある。
しかしホッファーを前にしては批判は批判にならず、かえってホッファーの偉大さが際立つようだ。
結局大枠では、全員「ホッファーの手のひらのなか」という印象だ。

ホッファーとソールの共著”Orthomolecular Medicine For Everyone”は、栄養療法の金字塔ともいうべき本だ。
哲学でいうところのプラトンの『ソクラテスの弁明』に比肩すべき著書で、歴史に残る傑作、といっても過言ではないと思っている。
しかし同時に、この本は絶対的な経典ではない、とも思う。
なぜなら栄養療法は宗教ではなくて科学だから、科学の進歩によって新たな知見が出現すれば、訂正すべき事項も出てくる。これは科学の宿命だ。
実際、僕もこの本を翻訳しながら「この記述はすでに古びているな」と思う箇所もいくつかあった。

しかし、である。
しかしそれにもかかわらず、この本の偉大さは変わらない。
それは、この本が単なる栄養療法のハウツー本ではなく、栄養療法を科学的に確立しようとしてきた先人たちの苦闘の軌跡を記した本だからだ。
不治とされる統合失調症や癌、ハンチントン舞踏病などが各種ビタミンの投与で軽快した衝撃的な症例。
患者を何とか救おうとする医学者らの苦悩。
死の淵から生還し健康を取り戻した患者の喜び。
そんな素晴らしい治療法でありながら、既存の医学会から目の敵にされ、徹底的に弾圧された過去(および現在)。
それは今後新たな知見がどれだけ登場しようとも変わらない歴史である。
「こんなふうにして栄養療法が作られてきたのか」という感慨とともに、読者は各種の栄養についての理解を深めるだろう。

初めてこの本を読んだとき、僕はすぐに確信した。「この本の知識は、公共のものたるべきだ」と。
すでにホッファーは故人だったから、共著者のソールにメールで連絡をとった。
自分は日本人の医師でこの本をぜひとも翻訳したい、という旨を伝えた。
すぐに返信が来た。出版社を自分で見つけられるなら、という条件付きながら、好意的な内容だった。

いろいろな出版社を当たった。ことごとく拒否された。
出版不況の時代である。紙の本なんて、もう誰も読まない。
あきらめかけたとき、一社だけ、色よい返事をくれた出版社があった。
よかった。これで出版できる。迷いなく、契約を結んだ。

あとは、僕が翻訳するだけだ。猛烈な勢いで翻訳にとりかかった。
そのときの僕は、仕事と食事とトイレと睡眠以外、ずっと翻訳作業に没頭していた。
いや、食事しながらも、トイレしながらも、眠りながらも、翻訳していた。
夜遊びをやめたのは当然として、酒もやめたし、仲のいい女の子とも疎遠になった。

苦しかった。受験生時代だってこんなに勉強したことはない。
でも、耐えられた。
なぜって、こんなにやりがいのあることは他になかったから。
僕の作業がひとつ進むたび、それだけ日本人読者とこの本が近づく。
僕が一日さぼれば、日本人読者とこの本の出会う日が一日遠のく。
どんなにつらかろうが、こんなにやりがいのある作業、他にあるわけがない。

誰かのために頑張る、という感覚に、僕は胸が震えた。
車の運転がいつもより慎重になった。
生に執着するつもりのない自分だけど、「今不慮の事故で死んだら、無念で成仏できない」と思った笑

一日も早く仕上げたい、という思いと同時に、翻訳のクオリティにもこだわりたかった。
僕の任務は、著者のホッファーとソールの声を伝えることだ。
その過程で、僕の味が出てはいけない。「僕の文章」になってはいけないんだ。
僕はあくまで黒子で、彼らの声を伝えるナチュラルな翻訳機、でなければならない。
しかしこの作業には難渋した。

原著には「どの章はホッファーが担当した」とも「ここの文章はソールが書いた」とも書かれていない。
しかし、文体から察することができる。ホッファーは研究一筋の人で、文章も理路整然としている。
一方ソールは文学の素養があって、凝った言い回しを好んで使う。去年4月にソールに会ったときに、彼から直接聞いた。「エイブラムに文章の腕を見込まれて、共著を書くことになったんだ」と。
だから、ホッファーは比較的訳しやすく、ソールは訳しにくい文章が多かった。
訳しにくい文章をどう訳すか。
「わかりにくい直訳よりは、わかりやすい意訳」にするのが基本だが、それが過ぎては「僕の文章」になってしまう。
僕の役割は英語と日本語をつなぐパイプ役だから、できるだけ透明であるよう心がけたが、それがうまくいったかどうかはわからない。そのあたりは読者の判断に任せよう。

翻訳は編集者も驚くスピードで完成させたものの、出版社の仕事が遅々として進まない。最初はやきもきして何かと催促したが、のらりくらりとかわされる。
僕の方でも開業したこともあって、日々の忙しさに何かとかまけているうちに、やがて出版の件は忘れた。
動いてくれたのは僕の周囲の人たちだ。彼らが出版社をせっついてくれた。
そうしていよいよ、今月中に出版される運びとなった。

こんな表紙になるという。

当たり前だけど、この本は僕の本ではない。
栄養療法の大家ホッファーとソールの著書だ。
しかし彼らの声を伝える役割を担えたことは、僕にとってのささやかな誇りになっている。
興味のある人は一読頂ければ、と思います。
実際に出版されて皆さんが購入可能になったとき、またブログに書きます。

観葉植物

2019.10.6

犬や猫を飼いたいけど、仕事が忙しくて世話できないし、そもそもペット禁止のマンションだから、飼えない。
代わりに、というわけでもないけど、植物を育てている。
鉢植えのガジュマル。
3ヶ月ほど前に買った。5センチくらいの小さな木。
朝クリニックに行けば、まず、ガジュマルに水をやる。
植物だから、動かないし話さない。でも、水を浴びて喜んでいるのがわかる。
妙な話だけど、本当に、わかる。
木の精、というのがいるような気がしている。気のせい、ではなくて。
夏の日光をたっぷり吸収して、毎日みるみる大きくなった。
鉢のサイズが合わなくなったので、大きな鉢に換えてやった。
この一夏で、20センチほどに成長した。

よく老人が趣味で盆栽を育てていたりする。何が楽しいのやら、さっぱり理解できなかった。
でも、今ならわかる。
植物は動かないし話さない。でも、毎日気にかけて何かと手をかけてやると、その熱意にちゃんと応えてくれるんだ。
ペットのようなダイレクトな反応ではないから、それはわかりにくいかもしれない。
感じようとしない人なら、何も感じないだろう。
でも、それは確かに、ある。

若いときにはわからないことがある。
若者特有の、あの直接的で、がさつで、生き急ぐような情熱。
盆栽の味を理解する心とは、対極にあるものだ。
実際に人生を生きてみて、年齢をとって、ある程度枯れて、そうして初めて見えてくるもの、というのがあるらしいんだ。
もう俺もおっさん、ということか(/ _ ; )

老若男女、誰にでもわかる話をしよう。
観葉植物の科学的なメリットについて、だ。
ビルのオフィスに観葉植物をひとつ置くだけで、ずいぶんオフィスの印象が変わるものだ。人間はかつて数百万年の間、自然の中で暮らしていた。閉め切ったビルのなかで暮らすようになったのは、せいぜいここ百年のこと。植物が僕らの精神に癒し効果をもたらす背景には、「緑への郷愁」があるせいかもしれない。
もっと実際的なメリットとしては、空気清浄作用だ。
たとえばこんな論文がある。
『観葉植物による一般的室内濃度のアルデヒドやケトンの取り込み』
https://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/es9020316
ピースリリー(スパティフィラム属)とゴールデンポトス(サトイモ科エピプレムヌム属)の葉が、低分子量のアルデヒドやケトンを一般的な室内濃度(101−102 ppbv)でどれくらい吸収するのかを測定した。
アルデヒド(C3−C6)およびケトン(C4−C6)はこれらの植物によって吸収されたが、C3のケトンは吸収されなかった。
周辺濃度で調整した吸収速度を調べたところ、アルデヒドは7〜19 mmol(1平方メートル、1秒あたり)、ケトンは2〜7 mmol(1平方メートル、1秒あたり)だった。
長時間燻蒸したところ、吸収した総量は葉に溶解した量の30〜100倍だった。これは、揮発性の有機炭素が葉で代謝されたか、あるいは葉柄を経由して別の部位に運ばれたことを意味している。
細胞内濃度と周辺濃度の比(Ci/Ca)は、ケトンよりもアルデヒドで有意に低かった。
特に、直鎖不飽和アルデヒド(クロトンアルデヒド)ではCi/Ca比がほぼゼロだった。これは恐らく、極めて水溶性が高いためと考えられる。

ちなみに、スパティフィラムの画像。

ポトスはこういうの。

名前を知らなくても、誰しも見たことがあるだろう。
しかしこれらの植物に、空気中の有害物質除去作用があることを知る人は少ない。
高額な家やマンションを購入したものの、そこに住み始めて以後、くしゃみや鼻水が止まらなくなった、という人がいる。
シックハウス症候群だ。
建築資材に含まれる有害物質が空気中に充満して、人が住めないような新居を、大枚をはたいて買ってしまったわけだ。
こういう人は、まず、観葉植物や活性炭を部屋に置くといい。
下手な空気清浄機よりもはるかにコスパがいいはずだ。

抗生剤と腸内細菌

2019.10.5

たとえば、皮膚にちょっとしたかすり傷ができた。
早く治ってほしいな、と思う。でも皮膚のターンオーバーは、だいたい28日かかる。
基底層でできた新たな細胞が、表面まで上がってきて古い細胞を一新するのに、28日かかる、ということだ。
だから、その間はじっと我慢だね。

一方、腸粘膜のターンオーバーは1日から数日で起こる、といわれている。
皮膚よりも周期が断然早いから、それだけダメージからの立ち直りも早い。
ただ、腸管内は、皮膚が受けるような物理的な刺激は少ないが、たとえば食品添加物、農薬、抗生物質など、化学的な刺激にかなりさらされている。
刺激の質が違うわけだ。

表皮には多くの常在菌がいるが、腸内にはそれより多くの細菌がいる。
いわゆる善玉菌、悪玉菌、日和見菌も含めて、ざっと3万種類、100兆個から1000兆個の腸内細菌が住んでいるといわれている。
何らかの理由で、悪玉菌をぜひとも根絶したい、と思ったとする。抗生剤を使おう、ということになる。
しかし、抗生剤は、善も悪もいっしょくたに、この細菌叢を壊滅させる。

ある町がある。そこには善良な庶民もいれば、犯罪者もいたり、特に何もせずぶらぶらしてる人もいる。
その町に核爆弾を落とせばどうなるか?
犯罪者を一掃することができるだろう。しかし、平和に暮らしていた庶民まで巻き添えを食らうことになる。そのリスクをどう考えるか。
また、核爆弾によって焼け野原になった町が新たに復旧するのに、どれくらいの時間がかかるのだろうか。

要するに、問題はこういうことである。
「抗生物質によって、腸はどれくらいのダメージを受けるのだろうか」
以下の論文に、ヒントがある。
『ディープ16S rRNAシークエンスにより明らかになったヒト腸管に対する抗生剤の影響』
要約部分をつまみ食いで訳すと。。。
健康な成人に抗生剤(シプロフロキサシン)を投与して、その前後で影響を調べた。シプロフロキサシンによって、腸内細菌の種類の約3分の1が消失した。
ただし、抗生剤の影響の大きさには個人差があった。
また全ての被験者で、抗生剤投与から4週間経過すると、だいたい元通りに戻ったが、いくつかの菌種は6ヶ月経っても回復しなかった。
シプロフロキサシンを使っても何ら腹部症状を訴えない被験者には、同剤は腸内細菌叢にほとんど影響しないと思われていたが、本研究の示すところはそうではない。
ヒトの腸内細菌叢は、ギリギリで機能しているのではなく、ある程度の余裕を残して機能しているようだ。
また、4週間という短期間で元の腸内細菌叢に戻ったことは、腸には細菌叢の回復を促進する何らかの因子が存在する可能性がある。

ポイントをまとめると、
・1回の抗生剤使用によって、腸内細菌叢の多様性の3分の1が失われた。
・4週間でだいたい元通りに戻った。
・しかし一部の菌種は6ヶ月経っても失われたままだった。
・腸内細菌叢は100種類100兆個もあるだけあって、抗生剤を1回使ったぐらいでは、壊滅的打撃を受けて機能停止に陥る、なんてことはない(the hypothesis of functional redundancy; 機能的余剰仮説)。

臨床をやっていると、「歯医者で親知らずを抜いて、抗生剤を3日間飲んでいた。それ以後ずっと、何となく体調がすぐれない」みたいな患者をよく見かける。
歯を抜いた後の化膿止めのために抗生剤を飲むのは仕方ないのかもしれない。
しかし、1回の服用で腸内細菌の多様性が大幅に減少するところ、複数回飲めばそれだけダメージは大きいだろう。

抗生剤の連用で、なぜ体調を崩すのか。
これを理解するには、腸内細菌の有用な働きを知ることだ。

・まず、腸内細菌叢は病原菌の侵入を防いでいる。
逆に、抗生剤で腸内細菌叢が破壊されると、その隙を狙って病原菌が腸内に侵入する。
爆弾で焦土と化した町に、海外マフィアが進出するようなものだ。悪玉菌は日本の仁義を重んじるヤクザのようなもので、悪玉ではあるけどその存在のおかげで外国マフィアは入り込めなかった。その目障りな存在がなくなったことで、海外マフィアが跳梁跋扈できる環境になったわけだ。

・もうひとつは、有用物質の産生。
人間と腸内細菌は共生の最たる例だ。人間が腸内細菌に宿を貸してやる。食事(食物繊維)もあげる。お返しに腸内細菌は人間に別の栄養(短鎖脂肪酸、各種ビタミン、ドーパミン、セロトニンなど)をくれる。理想的なwin-win関係だ。

・さらに、免疫を生み出すもとになっている。
腸という自分の内部に菌を住まわせるというのは、それなりにリスクのあることだ。だから、腸(特にパイエル板)には体の防衛部隊(白血球)が常駐して、腸内細菌叢が暴走しないよう見張っている。つまり腸内細菌の存在が、免疫を生み出すもとになっている。
菌を腸に住まわせるリスクが顕在化するのは、人が死んだときだ。人間は死ぬと、体内の循環が停止する。免疫機能も停止して、白血球のような体の防御部隊も解散、ということになる。すると、腸内細菌の暴走が始まる。腸を食い破り、体のあちこちに菌が散らばっていく。「腐る」という現象の始まりだ。
法医学者は、死体が腹から腐っていくことをよく知っている。
スーパーの鮮魚コーナーの担当者もこのことを知っている。だから、スーパーで売ってる魚は、ハラワタが取り除かれていることが多い。足が早くなってしまうからね。

ニキビ治療のために、皮膚科医に言われるがままに毎日抗生剤を飲んでる人なんて見ると、気の毒になる。
このあたりこそ、栄養療法がよく効く分野なのにねぇ。

幸せになる方法

2019.10.4

人間は何のために生きるのか?
哲学や宗教が答えようとしてきた一大テーマで、古今の偉大な思想家が様々な考察をめぐらしてきた。
この問題に対して、僕が一言で答えよう。
それは、「幸せになるため」だ。

当然反論はあると思う。たとえば僕は岡本太郎が好きだけど、彼は「幸せ」などという甘っちょろい言葉が大嫌いだった。
「幸せなどというぬるい言葉があるせいで、皆、不幸に陥る。こんな言葉、なくしてしまえ。
人生の意味?そんなもん、知らん。ただ、与えられた生を、熱く、情熱的に生きる。それだけのことだ」
いかにも芸術家らしくて、これはこれでひとつの答えだろう。
理性的な人は、「では、幸せとは何なのか?」と突っ込んでくる思う。
これはこれでおもしろいテーマだけど、ひとまずそこは流してほしい。
細かい定義はさておき、「幸せ」という言葉には一応の共通了解があるはずで、ここではそういう、何となくの意味で使っている。

では、どうすれば、幸せになれるのだろうか。
幸せを手に入れるために、人間には何が必要なのだろうか。
思想ではなく、科学によって、この問いに答えようとする研究がある。
ハーバード大学による成人発達研究、通称”Grant Study”である。
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Grant_Study
1939年にスタートした研究で、1939年から1944年にハーバード大学に在籍した心身ともに健康な268人(それプラス、セカンドコホートとして、1940年から1945年にボストン近郊で少年時代を過ごした456人)をフォローする研究だ。被験者724人は全員アメリカ国籍の男性である。
なんと、この研究はいまだに続いている。研究の終了は、被験者全員が死亡したときだ。80年以上継続中のコホート研究というのは、多くはない。
被験者は、2年おき行われるアンケートでフォローされているが、インタビュワーが被験者のもとに直接出向くことも多々ある。
精神および身体の健康、仕事を楽しめているか、退職後の人生や夫婦仲はどうか、などの情報が収集される。
かかりつけの主治医からカルテを手に入れたり、家族との会話をビデオに収めたりすることさえあって、膨大な手間と時間が注ぎ込まれている。
この研究の目的は、「幸せな老年を迎えるにあたって、何が必要か」を究明することだ。

この研究は、被験者の様々な人生模様を見つめてきた。
724人には、724通りの人生がある。弁護士や医者になった者、サラリーマンや肉体労働者になった者、スラム街でホームレスになった者、など、実に多様な人生があった。
経済的に成功した人もいたし、失敗した人もいた。健康的な長寿を迎えた人もいれば、若くして亡くなった者もいた。
彼らの人生をフォローしていくなかで、研究者はついに「人間の幸福にとって、最も大事なことは何か」に対する答えを発見するに至った。

何だと思いますか?五択問題にしました。
ちょっと考えてみてください。
「次のなかから、人間が幸せになるために最も重要なものを選べ」
1.経済的豊かさ
2.心身の健康
3.良好な人間関係
4.人望、評判などの名声
5.「足る」を知ること

大金持ちで地位や名誉があっても不幸な人は山ほどいるから、1と4は外せる。
5は老荘思想っぽいというか、東洋的なにおいがあって、アメリカのコホート研究から導き出される結論ではなさそう。
多分、2か3だろう。アドラー的には3だろうけど、個人的には、職業柄もあって、2を選ぶかな。
金がたっぷりあっても人間関係に恵まれていても、健康がなければ、人生何ひとつ楽しめないでしょう?
しかし、研究者の導き出した答えは、3だった。
研究リーダーは以下のように言っている。
「幸せへの道は、富でも名声でも、必死に働くことでもない。我々の体を健康にし、心を幸せにしてくれるのは、『良好な人間関係』。これが我々の結論である」

もちろん、健康はどうでもいい、ということではない。
健康は非常に大事だが、それ以上に大事なのは人間関係で、良好な人間関係を維持している人では、心身の健康度が高い。しかし困ったときに頼る人がいない人では、記憶力など脳機能の低下が顕著、ということが判明した。

この研究によって見えてきたことはそれだけではない。人間の人生に関する様々な知見が得られた。いくつかピックアップしてみよう。

・アルコール依存症は人生を破壊する。
被験者男性の離婚原因は、アルコールが最も多かった。
アルコール消費量と神経症およびうつ病の間には強い相関があった。これらの症状はアルコール乱用の後に起こっており、症状が先行して飲酒を引き起こすのではない。
また、酒とともに行われる喫煙が、死亡率を引き上げる最大のリスク因子である。

・経済的成功は、知能よりは人間関係に左右される(ただし一定以上の知能は必要)。
『良好な人間関係』の評価項目で最高点を記録した群では、給与のピーク時(多くの場合55歳から60歳の間)に年収にして平均14万1千ドル多く稼いでいた。
IQが110〜115の被験者が稼ぐ最大年収と、IQが150以上の被験者が稼ぐ最大年収の間には、有意差がなかった。
(ちなみに、IQは100が標準。東大生の平均IQは120)

・子供時代に母親と良好な関係を築けていた被験者は、そうではない被験者と比べて、平均年収が8万7千ドル多かった(できる男はマザコンなんよ^^)。
また、子供時代に母親との関係性が悪かった被験者では、老年になってから認知症になるリスクが高かった。
仕事の能力は、被験者が子供時代に母親と良好な関係性を保てたかどうかと相関していた。しかし、父親との関係性は相関がなかった。
子供時代に母親と良好な関係を保てていたことは、75歳時点での『人生の満足度』と相関がなかった。
子供時代に父親と良好な関係を保った被験者男性は、成人期以後不安症の罹患率が低く、休暇を充実して楽しむ性格と相関があり、75歳時点での『人生の満足度』が高かった。

研究者の結論としては、「人生全般を通じて、良好な人間関係は『人生の満足度』に最も大きな影響を与えている。言い換えると、『幸せとは愛情である』ということだ」

実におもしろい研究だ。
いわれてみれば常識的なことばかりなんだけどね。
「酒の飲み過ぎはダメ」とか「子供時代を幸せに過ごすことは大事だよ」とか。
でもそういう「おばあちゃんの知恵袋的処世訓」が、コホート研究でしっかり裏付けられた、ということに意味がある。

IQ150以上とか、ズバ抜けた頭の良さが経済的成功と相関していない、というのもおもしろい。
IQの高さがアスペルガー的な要素によるものだったら、知性としてはアンバランスで、人間関係とか世渡りが下手なのかもしれない。
IQというのは、単なるロジックの運用能力であって、そんなのはほどほどにできれば充分。それよりも、場の空気をすばやく察したり機転のきいた受け答えをしたり、っていう、「数字で測れない能力」のほうが、社会的成功には重要ということだろう。
この事実を研究者は「頭の良さよりも人間関係が大事」と解釈してるけど、それもあるだろうけど、それだけかな。
本当の意味で頭がいいと、人生のむなしさが見え透いて「金はほどほどでいい。バカみたいに稼いで何になる」ってなるんじゃないかな。

思春期の頃には、両親と仲がいいことが恥ずかしくて、親と仲が悪いことをことさらに吹聴したりしたものだけど、この歳になってみると(あるいは母に他界されてみると)、親との関係性が重要というのは、実感としてわかる。
今でも、幼少期の「安心とワクワクの記憶」を、ふと思い出したりする。
常に立ち返って、ふりだしを確認して、前に進もうとする。過去だから終わり、じゃないんだな。