院長ブログ

栄養療法はなぜ広まらないのか

2018.5.28

クレンナーがビタミンCの大量投与が様々な疾患に有効であることを示したのが1940年代、カウフマンがビタミンB3(ナイアシン)の大量投与で成果を上げたり、シュート兄弟がビタミンEがいかに臨床で有効であるかを示したのが1950年代。

それからすでに、70年ほどの歳月が流れた。

しかし、病気に対してビタミンや栄養の投与によって治療しよう、という動きはほとんどない。
少なくとも、それは決して一般的な治療法ではない。
病院に行けば、まず、薬。
患者も薬をもらうことを期待して病院に行くし、もちろん医者も投薬治療が基本だと思っている。
栄養の重要性に目を向ける医者はほとんどいない。

なぜだろうか。
各種ビタミンが様々な疾患に著効するというデータは山のようにある。ビタミンに命を救われた、病気との戦い一色だった人生をビタミンが変えてくれた、といった患者の声も無数にある。
しかし、栄養療法が現代医療のスタンダードになっているかといえば、決してそうではない。
なぜなのか。

これには様々な理由がある。

まず、医学部教育。
そもそも、僕ら医者は、医学部で栄養学のことをろくに学ばない。
ビタミンC、ナイアシン。授業でやりましたよ、一応。でもその時間は5分ほどだけ。ほとんど素通り、といったありさまだった。
副作用の多い製薬会社の薬剤よりもはるかに有効で副作用も少ないビタミンが、大学の授業ではこの程度の扱いなわけ。国家試験にも出ない。だから僕ら、ビタミンのことなんてほとんど知らないまま医者になる。

学会といった組織にも問題がある。彼ら、非常に融通がきかない。たとえば糖質制限が糖尿病に有効だと世界中からデータが上がってきてるのに、糖尿病学会は糖質制限に対して否定的なスタンスを崩していない。
ネットのあるこの時代、医者よりも一般人のほうが情報に通じていて、医者が全然話にならないから、自分で糖質制限やってるっていう人、僕の身の回りにもたくさんいる。
心ある医者は恥じるべきなんだけどね、こういう状況。

「医者は製薬会社の手先で、自分では飲まないような有害な薬を患者には大量に処方して、それでお金をもうけてる」といった医者批判がよく言われるけど、これはちょっと違うと思う。

なるほど、そういう医者もいるのかもしれない。薬の副作用を重々承知しながらも、営利目的のために不必要に多剤大量処方しているという先生。
でもそういう人はあんまりいないと思う。
多くの医者は、それ相応の志を持って医者になったはずで、せっかく医者としてやっていくからには、少しでも患者を助けたい、患者のためになりたい、って考えてる医者がほとんどだと思う。
別に普通に働いていれば食っていくだけの金には困らないわけで、金に汚い先生って、少なくとも僕はあんまり見たことがない。
(ただし、不勉強な医者はたくさん見てきた。新たな知識の習得なんて、とっくの昔にやめてしまった人。こういう人は、患者から新たな治療法の存在を示唆されると、あからさまに不機嫌になる。遠回しに自分の不勉強をなじられている気持ちになるのかもしれない。)

医者もさすがに糖質制限のこと、耳にはするよ。
他ならぬ患者が医者に直接言ってくるわけだからさ。
でも、患者のそういう言葉に対して、多くの医者は話半分にしか聞いていない。

同様に、オーソモレキュラー療法含め、栄養療法のことを現場で耳にしたことがある先生、たくさんいると思う。
でも、まともに取り合おうとする医者はほとんどいないし、自分がそれを勉強し実践しようなんていう医者はさらにいない。

なぜか。
これは、一つには見栄だと思う。プライド。
自分が学校で教わり、実践している医療とはまったく別の方法論に基づいた治療体系があり、しかもそれが相当な成果を上げている、となれば、先生、どう思うか。
おもしろくない。俺がやっているのはニセ医療だってのか。
真剣にやっている先生ほど、そう思うだろう。
仮に心の広い先生がいて、栄養療法に素直に興味を持ち、なるほどこれはすばらしい、と納得したとしても、勤務医の立場で栄養療法を実践するのは容易なことではない。

実は、一番きついのは、他の先生からの目線なんだ。
他の先生からの評判。悪口。
医者が最も気にし、恐れ、そして行動に最も影響を受けるのは、他の先生からの評価なんだ。
勇気をもって、栄養療法に走ったらどうなるか。
「ふーん、先生は『そっち方面』、行っちゃったのね」ってな視線が周囲から注がれることになる。
勤務しているのが大学の医局ならば、針のむしろだろう。医局内での出世はもはや望むべくもない。

真に患者の利益を思うなら、薬ではなく栄養だ。
そう気づいている先生は、実はけっこういると僕はにらんでいる。
でも、それを患者相手に実践となると、大変な心のタフさが必要なんだ。

僕はそれに耐えられなかった。
職場の上司が言う。「中村先生さぁ、ビタミンばっか処方して、何考えてるの」
「何考えてるの」という疑問文の形をとっているが、この場合、僕に具体的な答えを要求しているわけではもちろんない。「お前、バカじゃねえのか」と婉曲に表現しているのである。
同僚の先生からばかりじゃない。医療事務にもバカにされる始末だった。
病院内では、僕のためだけの専用ルールがあった。ビタミンを出しすぎる、ということで、ビタミンの処方は三剤まで。一剤でも多く出そうものなら、院内薬局からすぐさま疑義照会が飛んでくる。
抗精神病薬を減量すれば、院内薬局の担当者から院長に報告が行き、院長がその適否を判断する。可と判断されれば、おとがめなし。そのまま処方箋が発行されるが、不適とされれば、処方の訂正を余儀なくされた。
常に処方を見張られている問題のある医師、というのが僕の病院内での立場だった。

なんで俺だけこんなに神経をすり減らすような気持ちで勤務しているのだろう。
患者がどうなろうが、俺の知ったことじゃないじゃないか。いっそ病院の方針に染まってやればいい。なるほど、不必要な処方のせいで患者は苦しむだろう。でもそれはガイドラインに沿った処方なんだから、何もためらうことはない。処方してる医者の俺が苦しんでるなんて、こんなアベコベな話があるか。そういうふうに思ったことも一再ならずある。
でもそんなときでも、ときどき、「先生のおかげでよくなりました」と言ってくれる患者がいた。
そういう感謝の言葉と笑顔が、大げさじゃなく僕の支えだった。
そうしてそういう患者と話しながら、僕は確信するのだった。患者を治しもしない薬を延々処方し続ける医者になるだけのあくどさを、僕は持つことができない、と。
かといって、もはや勤務医を続けるのも、精神的に限界だった。
だから、開業した。
「自分なりの医療をやりたい」という志をもって開業した、と言いたいところだけど(もちろんそれもあるけど)、実際には、病院にいたたまれなくなって、病院から追い出されるようにやめ、開業した、というほうが正確だと思う。
開業したとして、経営的に大丈夫なのか。予防接種も打たない。薬もろくに出さない。何のための病院なんだ?と患者は思って、来てくれるわけがないだろう。そうした不安抱えつつの開業だった。

そういう具合なので、僕は、勤務医の先生が、勤務医の立場で栄養療法を実践することの困難さを、よく分かっている。自分がまさに経験してきたことなので。

ネットがあって、情報に簡単にアクセスできる時代ではあるけども、栄養の重要性については、まだ多くの人に知られているとは言い難いと僕は思っている。
国民の8、9割がオーソモレキュラー療法のことを知っているという状況になれば、既存の医療に頼るのがバカらしくなって、よほどの情報弱者を除いて、一般的な病院には誰も行かないようになると思う。

そうなれば、学会とかの既存の権威筋も栄養療法のことは無視できず、ようやく真に患者の利益になる医療が一般に実現するだろうけど、そういう未来が来るのはいつのことだろうか。
その日が来るまでは、僕のクリニックの存在意義も多少なりあると思っている。