院長ブログ

バックギャモン2

2019.11.7

「いやぁ、あっちゃん。前回の院長ブログはひどいよ。大嘘書いてるじゃないの。
バックギャモンに一時期ハマってたけど今は封印してる?将棋で我慢?
ウソもたいがいにしなよ!今、現に、バックギャモンにドハマりしてるじゃないか!それで全然ブログの更新もしなくなっちゃったじゃないか!
もうね、完全なバックギャモン廃人だよ。あのさ、依存症の人の治療とかも、あっちゃんするわけでしょ?
全然説得力ないよね。だって、医者本人がバックギャモン中毒なんだから。これって、ギャンブル依存症そのものでしょ。
頼むよ、あっちゃんのブログ、楽しみにしてる人もいるんだよ。あっちゃんにしか書けない記事とか情報発信があるんだからさ、ちゃんと立ち直ってよ。
もうさ、テーマは健康のことじゃなくても、何でもいい。とにかく、ブログを書きなよ」

言ってくれる人がいるというのは幸せなことである。
そう、ふとしたきっかけで、またバックギャモン熱に火がついた。以来、隙間時間を見つけては、延々サイコロを振っている(オンライン対局だから、正確には『サイコロをクリックしている』のだが)。
つくづく思うのは、このゲームの中毒性である。
 本 当 に 、 こ の ゲ ー ム は ヤ バ い 。
おもしろすぎるのである。
診療に影響は出ていない。仕事はしっかりやっている。課金してるわけではないから、金銭的に損失があるわけでもない。
『バックギャモン廃人』とはおもしろい表現だが、決して廃人ではない。基本的には、いつもと変わらない自分のつもりである。
ただ、診療以外の時間、つまり生活の余白すべてを、バックギャモンに捧げている。当然ブログにまわすエネルギーと時間はない。

しかし、親身な友人の言葉で僕も反省した。確かに、度が過ぎていると思う。
今日できっぱり、バックギャモンをやめよう。
友よ、大丈夫。心配ない。やめようと思えば、いつでもやめられるんだ(←依存症者の常套句´Д`)。
僕は仮にも精神科医で、心のプロである。悪習の断ち切り方、つまり、半ば習慣化した常同的な行動のやめ方はわかっている。

こういうときは、メタ認知が重要である。
ハマっている自分をきちんと意識する。なぜバックギャモンがこんなにおもしろいのか分析し、要素に分解する。対象から目を背けたり、ハマっている自分を見まいとするのではなく、むしろしっかり見つめて、原因に切り込むことだ。

日本史を習った人は、「賀茂川の水、双六の賽、山法師」という白河院の三不如意を覚えているかもしれない。
そう、強権をふるった白河法皇にさえ、サイコロの目はどうにもならなかった(歴史上の人物もバックギャモン中毒だったかと思うと、他人の気がしない^^;)
しかし、賽運のなすがままかというと決してそうではなく、高度な戦略によって勝ちを呼び込めるのがバックギャモンの魅力だ。
ビルダーをどう配置するか。どのタイミングでバックマンを逃がすのか。堅実に行くのが吉か。欲張るのがベターか。
「ここで4が出ればっ、、相手のブロットにヒットして、、大逆転っ・・!!」ざわざわざわ、と、カイジみたいに熱くなる ゚Д゚
作戦が当たって大勝ちすることもあれば(『ギャモン勝ち』という)、逆に、相手の策略にはめられて負けることもある。
負ければ腹立たしいことこの上ないが、勝ったときの興奮がたまらない。この興奮を求めて、「もう1ゲーム」「もう1ゲーム」と止まらなくなる。

ドストエフスキーの『賭博者』は、明らかに作者の経験が反映された作品である。
あの世界的文豪も、「カイジ的ざわざわ」の魔力に憑りつかれていた。
この本によると、ギャンブルは賭博場だけにあるのではなく、そもそも人生自体がギャンブル的なんだ。
ちょっとしたフラストレーションがあって、ドキドキがあって、その結果に一喜一憂する感覚的報酬。
この構造は、ギャンブルの骨格であると同時に、人生の構造そのものでもある。
たとえば恋愛。愛の告白、うまくいくだろうか。
たとえば仕事。上司へのプレゼン、うまくいくだろうか。
報酬の喜びを目指して、ドキドキを抱えながら未知へ飛び込む。ギャンブルに興じる心は、人生を切り開く意欲と根っこは同じなんだ。
子供の頃を思い出すといい。遊びでさえ、ギャンブルだ。
かくれんぼ、鬼ごっこ、缶けり、泥警、、、
どの遊びにも、「うまいこといくかな」のドキドキがあって、成功したり失敗したりする。

構造をもっとクリアにまとめると、こういうことだ。
問題(ルール)→試行(思考も含む)→結果の開示(報酬あるいは損失)
「ドキドキして、たまにうまくいく」
この射幸心の快感こそが、ギャンブルの骨子である(ギャンブル的報酬)。
それとは別に、バックギャモンのネット対局で言えば、勝つたびにコインが貯まっていく快感もあるし(コレクション的報酬)、勝つときの効果音や光の点滅(体感的報酬)もある。

RPG形式のオンラインゲームも、敵との勝ったり負けたりがあり(ギャンブル)、アイテムが増えていき(コレクション)、仲間のプレイヤーと連帯したり(体感)、という感じで、結局報酬のパターンはすべてこの三つに集約されるのではないか。
ゲーム制作者は人間のこういう依存性をよく知っていて、ハマる工夫を随所に散りばめているはずだ。

だとすれば、逆に、僕らが習慣化したい行動を意図的にギャンブル化することで、新しい習い事の三日坊主を脱却できるのではないか。
たとえばジム通い。体を鍛えるということは、基本的には苦痛だから、なかなか続かない。しかし、ボディビルの大会に参加したり(勝つか負けるかわからないギャンブル)、毎日太くなる腕を観察したり(コレクション)、純粋に体を動かす喜びを味わったり(体感)して、つまり、しっかり報酬を意識することで、継続する可能性が上がると思う。

そういう意味では、このブログを書くこと自体、ギャンブルに似たところがある。
僕の書いていることが読者に伝わるかどうかわからない。わかってくれる人もいれば、反発する人もいるだろう(ギャンブル)。
毎日書き続ければ、過去の文章という形で残っていく。「文を書くということは、恥をかくということだ」と確か開高健のエッセーにあって、僕もこの点にまったく同意で、僕は恥ずかしくて昔書いた自分の文章が読めないのだけど^^;、ともかく、たまっていく(コレクション)。
思考を文章に落とし込んで、そして、ブログとして公共の視線にさらす。頭の内側を見られるようで、こんなに恥ずかしいことってない。でも、文章を紡ぎ出す最中はけっこう本気になっている。書き終えた後には、それなりの高揚感があったりする(体感)。

「ブログを書くことがギャンブル的?けっこうなことじゃないか。それならバックギャモンやめて、ブログ書きなよ」
うむ、しかし植木等がこうも言っている。
わかっちゃいるけどやめられない、と(←あかんやん)。