院長ブログ

膵臓癌

2018.7.26

「医者になって間もない頃、ある若い女性患者を担当した。
彼女、膵臓癌でね、発見時点ですでにステージ4だった。
若年者でこういう癌を発症するのって珍しいんだけど、若いだけあって進行も早くて、腹膜や肝臓にも転移していた。
ここまで進んでしまっては手術の適応はなくて、抗癌剤や放射線で何とか抑えようということになった。

膵臓癌は本当に難しいんだ。
僕が医者になった三十年ほど前と今とで、治療にどういう進歩があったか。
一年しか持たなかったところが、三年持つようになった。
せいぜいこれだけ。
膵臓癌の治療だけは、まるで取り残されたみたいにほとんど進歩していない。ランゲルハンス島は、現代医学にとっても未だ秘境なんだ。
消化酵素を外分泌し、ホルモンを内分泌するという器官の特性上、治療にはどうしても難渋するんだな。

僕はまだ医者になりたてで、担当患者を持てたことがうれしくてね、何とか治してあげたいって張りきっていた。教科書はもちろん、いろいろな文献や学術書を読んで、ずっと勉強してたよ。
指導医から言われたから勉強する、じゃないんだ。
患者から質問されて「うーん、わかりません」じゃ恥ずかしいし、頼りない。だから勉強するんだ。
本気で自分から勉強し始めたのって、患者に対する責任を背負うようになってからだと思う。

ヒマを見つけてはベッドサイドにも足を運んだ。
彼女、治療に対する不安でいっぱいだったし、独身の人だったからさ、お見舞いに来た家族や友人が帰っちゃうと退屈してるみたいだったから、よく話し相手になってた。
あるとき、病院のラウンジで話していると、
「先生、彼女いるの?」
「いや、いないけど」
「かわいそうだから私が彼女になってあげましょうか」
「ハハハ、何それ」って笑ったら、彼女も笑ってたけど、あの言葉、けっこう本気だったんだな。
正直なところ、彼女の好意は感じていた。
僕と年齢が近いこともあって、タメ口だったし、医師患者関係というよりは友達関係に近かったと思う。そして彼女としては、それ以上の関係を求めていた。

ちょうどその頃、病院でもエコーが導入された。エコー検査をするときに患者には上半身裸になってベッドに横になってもらうんだけど、僕の方はエコーに不慣れだったし、まだ若かったということもあって、裸になった彼女に必要以上にドギマギして、彼女の胸もとを見ないように目をそらしてたぐらいなんだけど、彼女、逆なんだ。
むしろ、胸を張る。
僕の照れを見透かしてさえいるようだった。
自分は若くして死ぬかもしれないという不安と、医療行為とはいえ、自分の裸体を若い男の前にこんなふうにさらすことは自分の人生でもうないだろうという思い。
彼女の内側にあったのは、そういう感情だったと思う。

治療が始まれば、「美しくなくなる」ことは事前に説明していた。抗癌剤の副作用で毛が抜けたり、病的にやせたり、肌の色つやが悪くなることを伝えていた。
だから、このエコー検査が彼女の人生でおそらく最後の場、美しい自分の体を男にさらす最後の場になることを、彼女は覚悟していた。
そして事実、その通りになった。

いや、その前に、実はもうひとつ、話がある。
そのエコー検査の翌日、僕は病院の当直をしていた。
深夜、彼女が僕のところに来て言った。「先生、不安で眠れないんです。しばらく私のそばで話してもらえませんか」
「ああ、そういうことなら構わないよ」と、彼女の入院する個室に行った。
しばらく他愛ない話をしていると、ふと、彼女の顔が僕に近づいてきて、彼女の唇が僕の唇を覆った。「先生、抱いて」

もう三十年前の話だよ。
医者になったばかりの頃にそんなことあったものだからさ、今後もこういうことはちょくちょくあるんだろうな、って思った。でもそれが最初で最後だった。
三十年医者をやってきて、そんなことは、もう二度と起こらなかった。

彼女の気持ちを思うと、今でもつらい。
誰でもいいわけじゃない。でも誰かに抱かれたかった。そしてその相手に僕を選んだ。
でも、僕は医者。彼女を治療する立場であり、その治療の副作用は、彼女の美しさも損なっていく。一度体を許した男に衰えていく容貌を見られることは、きっとつらかった思う。肉体的な苦痛以上につらかったと思うんだ。
そのつらさを思うと、関係を持ったことが正解だったのかどうか、いまだにわからない。」