きのう飲み屋にふらっと立ち寄ると、かつて理研で研究員をしていたという人に出会った。
現在はアメリカ在住。ニューヨークにある癌センターで研究員をしている。
たった今、日本に着いたばかり。
神戸に来ればいつも真っ先に立ち寄るのは、この場末の飲み屋だという。
「今アメリカは大寒波が来ててね、ニューヨークはマイナス10度以下だよ。たまたま日本にエスケープする形になって、助かった。
妻や子供はヒューストンに住んでて、僕一人がニューヨークに単身赴任している。
ヒューストンは温暖で住みやすいよ。
しかしニューヨークからは飛行機で3時間かかる。時差も1時間あって、アメリカは本当に広い。
ずっと理研で仕事していたんだけど、あるアメリカの研究施設から招聘された。妻を連れてアメリカに渡ろうと決意したのが1995年。ちょうど地下鉄サリン事件や阪神大震災で日本が大変だった頃だ。
姫路から新大阪に行くのに、新幹線が不通になっていてね、そのときに在来線に乗って、電車の車窓から地震でボロボロになった神戸の街を見た。
そのときの記憶が強烈なものだから、それを思うと今の神戸は本当に復興したね。
アメリカで子供が2人生まれた。最初のうちは『日本人らしく育てよう』なんて思っていたけど、学校に通い始めると無理だな。
学校の授業も英語、友人付き合いも英語、異性と恋をするのも英語ってなるとさ、発想や感性も英語的になってくるんだろうな。子供に合わせる形になって、すっかり僕もあきらめちゃった。いまや家族と話す言葉さえ英語になった。
おかしいかもしれないけど、ほら、妻とLINEのやりとりするのさえ、こんなふうに英語でやってるぐらいだよ」
言葉って単なる情報の伝達手段じゃなくて、感情を乗せる容れ物でもあると思うんですけど、そういうの、ネイティブ言語じゃない英語でできますか?
卑近な日本語の例ですけど、根っからの関西人が標準語で「疲れた」って言うよりも、「ああ、しんど」ってつぶやいたほうが、よほど言葉に感情が乗っかってる、みたいな。ましてや、”I’m tired.”で感情が伝わった感じ、しますか?
日本的な、微妙な感性とかニュアンスを子供に教えたいと思っても、英語では難しくないですか?
「なるほど、おもしろい意見だね。言ってることはわかるよ。僕も当初は日本語で子育てをしていた。子供を寝かせる子守唄を日本語で歌ったりしてね。あるとき家族で日本に来たとき、タクシーに乗ったらラジオから歌が流れて来た。僕が子守唄として歌っていた歌だ。子供の記憶力ってすごくて、子供がその歌を一緒に歌い始めたときには驚いたな。
でも、2つの文化両方のニュアンスに精通することは難しいと思う。いったん”I’m tired.”の文化で育ってしまうと、「ああ、しんど」の情緒に共感することはもうできない。そのあたりは仕方のないことだよ。
アメリカでの生活にもすっかり慣れた頃、また理研で研究しないかという話が出て、それで僕だけ日本に単身赴任して、神戸の理研に勤めることになった。それが2011年。
阪神大震災の後に日本を離れ、東北地震の後で日本に帰って来た形になった。
遺伝子改変したマウスを作る研究のチームリーダーをしていた。
遺伝的交配だけでは作ることが難しい遺伝子変異を、ゲノム編集を使って効率よく作る。で、国内外問わず研究機関にそういうマウスを提供する。そういう仕事だった。
2年ほど前に理研を退職し、それでまたアメリカの研究所に移った。
退職金みたいなのはないよ。理研は契約社員みたいなものだから」
小保方騒動のど真ん中の頃に理研におられたわけですよね?
「他の何を聞いてくれてもいいが、STAP細胞のことについては、ちょっと。。
あのときは本当に大変だった。研究室の前にマスコミが張りついているし、取材依頼のメールや電話が殺到した。
あの一件で感じたのは、マスコミに対する失望だよ。僕は渦中の内側にいたから内情がよくわかっていたが、マスコミ報道というのはこんなにデタラメなものかと思った。報道している記者だって、その報道が事実じゃないとわかっているだろうに。
STAPの論文はすでに撤回されたわけだから、存在しないことになっている。理研は2年前に創立百周年を迎えたが、記念して刊行された理研百年史にも当然記録されていない。関係者は皆、あの騒動のことをいまだに聞かれてうんざりしている」
理研がSTAP論文を撤回した後、ドイツの研究チームがSTAP細胞の再現に成功したというニュースを見ました。https://biz-journal.jp/2016/05/post_15081.html
小保方さんの「STAP細胞はあります」という言葉は真実だったのではないですか?騒動の背後に国家権力などの巨大な力があった、ということはありませんか?早々と撤回してしまったことは、むしろ理研の責任問題ということになってきませんか?
「これはあくまで個人的な意見だと断っておくが、STAPの論文には確かに捏造が含まれていた。ただ、理論的には間違っていないと思う。もちろん理論上正しいことと、実際にSTAP現象を確認することの間には天と地の差がある。実際には、あの論文通りのきれいな結果は出ない。
ドイツの論文は僕も読んだが、あの仕事で以ってSTAP細胞の実在が証明されたと結論するには早計だろう。たとえばSTAP現象を再現するために10の工程が必要だとすると、ドイツの論文はそのうち2の工程まではクリアして、きれいな結果を出した、という程度のことだ。
国家権力どうのこうのという話は僕にもわからない。ただ、マスコミの報道は明らかに間違っていたし、そういう間違いを堂々と報道して恥じないマスコミの姿勢には非常に違和感があった。僕が言えるのはこの辺りまでだね」
小保方さんって、今どうしてるんですか?
「わからない。あの一件で注目されすぎたせいで、普通の研究者としてやっていくのは難しいと思うし、どこかの研究室に所属しているということも聞かない。地下の研究室に属せば別だけどね。少なくとも表の研究室や学会では顔を見ないな」
地下の研究室って何ですか?
「いや、話だよ。ただの話。戦前の理研にはそういう組織は確かにあった。原子爆弾の研究とかね。存在も裏なら、会計も特別会計で裏の予算から計上される。昔はそういう組織があった。でも今はそんなの存在しない」
小保方さんの本、読みましたか?
「読んだ。確か、2冊出してるだろう。文春のグラビアは別として笑
時系列とかおおむねあの通りで、正しいと思う。マスコミに陥れられた悔しさとか、あの辺りの感情も本当だろう。誰だったっけ、あの高齢の尼さん。そう、瀬戸内寂聴。あの人と対談したのが、マスコミへの露出の最後じゃないかな。
優秀な弁護士つけて裁判して、ずいぶんなお金がかかっただろうから、本を出しているのはその費用にあてるため、っていうのもあるんじゃないかな。ご実家は商社で裕福だと仄聞したけどね」

僕らが飲んでいるのは、プレハブに毛の生えた程度のオンボロ飲み屋だ。まさかこんなところにかつて理研の研究リーダーを務め、現在アメリカで癌の最先端研究に従事する人が飲んでいるとは、誰も思わない。
先生はこの店がひどくお気に入りで、日本に帰って来るたびにまずこの店に立ち寄る。(僕も先生の気持ちがわかる。どんな気取った高級バーより、この店の方がはるかに居心地がいい。)先生は酒を飲んで心地よくアホになるためにここに来ている。だから、僕もそれに合わせてバカ話をするのが、あるべき暗黙のマナーだった。でも昨晩、僕はそのマナーを破ってしまった。こんな、超一流の研究者と話をする機会なんてまずないことだから、できれば触れられたくないSTAPの一件とかも突っ込んで聞いてしまった。
先生が今度いつこの飲み屋に来るのかわからない。でも、僕は今から決めている。次お会いしたときには、固い話は振らないで、僕もちゃんとアホになって先生をもてなそう、と。