かつて宗教団体として活動していた集団のトップとその側近6人が、死刑執行された。
死刑制度というのは世界的には廃止の方向のようで、国際的な死刑廃止団体も今回の日本の一斉死刑執行に対し、否定的な見解を示している。

死刑は存続すべきか廃止すべきか。
難しい問題だけど、個人的には、存続せざるを得ないんじゃないかと思う。
自分の大事な身内を殺されて、その殺人犯が税金で食わせてもらいながら刑務所でのうのうと生きていると思えば、遺族としてはたまらない気持ちになるかもしれない。

死刑が極刑であるのは、死が人間にとって最も強い苦痛である、ということが暗黙の前提になっている。
でも本当にそうか。
この日本では、年間2万人以上の人が自殺者がいる。
彼ら、何の犯罪を犯したわけでもない。自分の好きなように自由に生きられる身の上なのに、あえて自ら命を絶つ。そういう判断をする人が年間2万人以上いるということだ。
そういう人にとっては、死ぬことよりも生きることのほうが苦痛だった、ということだろう。
「死んだらどうなるか、わからない。でも今のこの生の苦痛よりは、未知なる死に飛び込んだほうがマシだ」
そういう思いだったのだと思う。
つまり、ある種の精神状態の人にとって、死は解放であり、救いでもあり得る、ということだ。
死刑を執行された人が、もしそういう精神状態にあったなら、それはその人にとって苦痛どころか、むしろ願ったり叶ったり、であって、刑罰が刑罰として機能していないと思う。
僕が死刑に反対するとすれば、それが世間で言われているところの「残虐な制度」だからではない。
生きることは死以上に苦痛になり得るのだから、犯人を死刑にしてそれで終わり、ではなく、苦しみに満ちた生を生きてもらうほうが、刑罰としてはむしろ適切である可能性があるからだ。

個人的な話1
僕は長野県松本市にある信州大学で医学生時代を過ごした。
松本市は、あの「松本サリン事件」が起こったところで、オウムとの関係は深い。
松本駅から信州大学まで行く途中に、容疑者とされた河野さんの家があって、僕も何度もその道を通ったことがあるし、事件によって医学部の女学生がサリンの影響で死亡している。
僕の先輩が、あの事件で亡くなっているわけだ。
救急の先生のなかには、あの事件を実地に経験している人もいた。
「化学兵器クラスの毒物が一般市街地にまかれたわけで、そんな例はこれまでにない。日本だけじゃなくて、世界中で例がない。当然、僕ら救急医も、そんな毒物に対するトレーニングは受けていない。
あの日の夜の救急現場の雰囲気は異様だったよ。次々に同じような症状のぐったりした患者が何十人と運ばれてきて、しかもこちらにはまったくなすすべもない。
頭痛、ふるえ、けいれん、発汗、嘔吐。一体何なんだ、と思ったよ。妙な農薬でもまかれたんじゃないか、ということは思ったけど、まさかサリンとはね。そんな言葉も知らなかったよ。
死亡確認にも手間取った。
死の三徴は知ってる?そう、心拍停止、呼吸停止、瞳孔散大だ。
サリンは副交感神経に作用して、瞳孔を収縮させる。心臓止まってて呼吸もしてなくて、明らかにお亡くなりなんだが、でも瞳孔は開いていない。
だから従来の死亡の定義からは、死亡と診断していいものかどうか、何とも悩ましかった。
松本サリン事件から数か月後、テレビで緊急速報が流れた。東京の地下鉄で妙な症状を訴える乗客が多発し、パニックが起こっているというニュースだった。
松本サリン事件でサリン中毒患者を診ていた柳澤信夫先生は、このニュースを見て、すぐにピンときた。サリンの症状そのものだ、と。
すぐに聖路加病院など救急指定病院に電話をかけ、FAXを送った。『おそらくはサリン中毒だと思われます。PAM(ヨウ化プラリドキシム)あるいはアトロピンの投与が奏功します』と。
柳澤先生のこの行動によって、多くの人が救われたはずだよ」

個人的な話2
地下鉄でサリンをまいた実行犯の一人、豊田亨死刑囚は、僕の高校の先輩にあたる。戦後、東大出身で死刑判決を受けた、初めての人物ということになる。
高校の体育の先生に、豊田先生という人がいた。豊田亨死刑囚のお父さんだ。
地下鉄サリン事件の実行犯として我が子が逮捕されたとき、豊田先生は高校の学長に辞表を出した。
「我が子がこんな事件を起こしたんです。どんな顔をして生徒に向き合えばいいのか、私にはわかりません。
それに、このままこの学校で教職を続けては、学校の看板に泥を塗るように思います。どうか辞表を受理してください」
普通の学長なら、「あ、そう。いいよ」と二つ返事でOKするところだろう。しかし、学長はなかなかに気骨のある人だった。
「なるほど、確かに彼がしたことは大変なことかもしれないが、しかしそれは君の子供であって、君ではない。
すでに成人した社会人なんだから、君が責任を取ってどうのこうの、というのは話が違う。
それも東大理学部で素粒子物理学を学んでいたという、平均以上の頭脳を備えた人物なんだ。
自分のしたことの重大さを今は後悔しているだろうし、彼に対する刑罰は司法が与えるのであって、君にはまったく関係のない話だ。
学校の看板?そんなことはさらに関係がない。
君の息子が起こした事件のために、我が校の評判が地に落ちる、と本当にお思いか。一体我が校の価値は、たったそれだけのことで損なわれてしまうほど、貧弱なものなのか」
こう諫められると、豊田先生としても、あえて強硬に辞意を示すことはできず、教員を続けることになった。
そして、僕も豊田先生の授業を受けることになった。
授業中にもよく冗談を言う明るい先生だった。豊田死刑囚も関西弁でジョークをとばす明るい性格だったというが、そういうところはお父さんに似たのだと思う。
しかし豊田先生は、内心非常に苦しんでいた。
学長にはそのように慰留され、教員として踏みとどまったが、息子のしでかしたことの重大さを思うと、正気でいられなかった。
東大卒業した自慢の息子が一転、取り返しのつかない殺人を犯してしまったのだから、それも無理のないことだろう。
アルコールだけが、その辛さを忘れさせてくれて、次第にその量に歯止めが利かなくなった。
僕ら生徒の前では明るく振舞いながら、先生、常に心は泣いていたのだった。
その後、豊田先生がどうなったのかは寡聞にして知らない。
多量のアルコールで命を縮めてすでに鬼籍に入っておられるか、あるいは今もご存命中で、我が子の死刑がいつ行われることかと心配しておられるか。
もし豊田先生がご存命中で、我が子が死刑に処され、遺骨を引き取るとなれば、先生はきっと、ほっとすると思う。
「亨よ、久しぶりやなぁ。ようやく家に帰ってきてくれたなぁ」と。
豊田死刑囚はオウムに入信して以来、実家に帰ったことがない。
我が子の遺骨が帰ってきて初めて、先生のなかで、ひとつの大きな区切りがつくと思う。