「いいか、次のお前の行き先は大和じゃ。よかったの。あの船は沈まん。あの船が沈むときは日本が沈むときじゃけの」
上官からこう伝えられたとき、17歳の少年の胸は誇りで震えた。うれしさのあまり、涙がこみ上げた。
昭和20年1月少年は初めて大和に乗り込んだ。持ち場は艦橋の一番上。海面から34メートルもの高さである。そこで長さ15メートルの測距儀を使って、敵機との距離や角度を計算するのが彼の任務だった。
少年の赴任から3ヶ月後、大和は沖縄への海上特攻に出撃した。
4月7日、鹿児島坊ノ岬沖上空は一面の曇り空だった。午前11過ぎ、「目標補足!敵の大編隊接近す!」という見張り員の叫び声が艦上に響いた。少年はすぐに測距儀を覗き、息を飲んだ。
レンズ一面を埋め尽くすほどの大編隊が迫ってくるのが見えた。主砲の射程4万メートルに敵機が入るのを、興奮して待ち受けた。しかし敵機は雲の上に消えた。
実はこうなると大和はお手上げなのだった。測距儀で見えなければ、大砲は打てない。米軍は大和の弱点を緻密に計算し、曇天のこの日を選んで、雲の上からの奇襲を仕掛けたのだった。
爆撃機や戦闘機が、ほぼ真上から襲って来た。近すぎて主砲も副砲も使えない。かろうじて機銃で応戦したが、多勢に無勢だった。
後部艦橋に爆弾が2発命中し、副砲が破壊された。低空で襲って来た雷撃機の放った魚雷が、左舷前部に命中した。
艦橋から甲板を見ると、地獄絵図だった。首や手足が吹き飛んで、もはや人間の形をとどめない肉片が散乱していた。衛生兵が負傷者や死体の対処に当たっていたが、そこに第二波、第三波が次々に襲って来た。
魚雷が命中するたびに、艦は地震のように揺れた。左舷に9発、右舷に1発の魚雷が当たったとき、ついに大和は左に傾き始めた。
砲術学校では、15度傾いたら限界、と習っていた。しかし今や、艦は25度、30度と傾きを次第に増している。
それでも、戦闘中である。戦闘中は、持ち場を離れることはできない。
そのとき、「総員、最上甲板へ」という命令が出た。軍には「逃げる」という言葉はない。しかしこれは事実上、「逃げろ」という意味だった。
すでに大和の傾きは50度。信じられない現場を目にしている、と少年は思った。不沈艦大和が、いよいよ沈むのか。
90度近く傾いたとき、少年はついに海に飛び込んだ。
沈みゆく巨大戦艦が、自身を中心に海面に巨大な渦を作り出していた。爆撃を生き残った者たちも、この渦に飲み込まれて命を落とした。少年の全身は水圧で締め付けられて酸欠状態になり、やがて意識も薄れた。
そのとき、巨大な爆音とともにオレンジ色の閃光が走った。大和のエンジンが大爆発を起こしたのだった。
その瞬間、少年の記憶が途絶えた。

気付いたとき、少年の体は海に浮かんでいた。幸いにも爆発の衝撃で水面に押し出されたのだった。
爆発で飛んで来た大和の鉄のかけらが、少年の右足に刺さっていた。本来水泳に自信のある彼だったが、右足が麻痺し、溺れそうだった。
「助けてくれー!」
少年ののどから、本能的な叫び声が出た。
背後に人の気配があり、振り向くと、大和の高射長がいた。こんな危急の場面ではあるが、高射長にみっともない叫び声を聞かれたことを、少年は恥ずかしく思った。
「軍人らしく、黙って死ね」そういうふうに言われるかと思い、身構える少年に向かって、高射長は優しい声で言った。「落ち着け。いいか、落ち着くんだ」
そして自分がつかまっていた丸太を少年に差し出して、こう言った。
「もう大丈夫。お前は若いんだから、頑張って生きろ」
そう励ましてから、高射長は波に揺られて離れて行った。
やがて駆逐艦『雪風』が救助に来た。生存者が怒号をあげて救命ロープを奪い合っているなかで、高射長は大和が沈んでいる方向へ一人泳いで行った。
少年は声の限りに「高射長!高射長!」と叫んだが、彼が振り返ることは決してなかった。
大和の乗組員は3332人。うち、生還者は276人で、少年はその一人となった。

「もう70年前のことですが、今でもあのときの光景は忘れません。
高射長は大和を空から守る最高責任者でした。『大和を守れなかった』その思いから、死を以て責任を取られたのだと思います。
高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではありません。彼の命そのものです」

「天皇?国家?関係ありません。
自分が生まれ育った愛する福山を、そして日本を守ろうと、憧れの戦艦大和に乗りました。その喜びと感動は、言葉では尽くせません。
そして不沈戦艦と言われた大和の沈没、原爆投下、敗戦。
私はそのすべてを、17歳のときに一気に経験したのです。17歳といえば、今の高校2年生ですね」

極限状態を実地に生き抜いた人の言葉の重みと迫力。
人間として、モノが違う。レベルの違いを見せつけられるようだ。
「それに比べて、今の高校2年生の軟弱さといえば、まったくもう」とは思わない。
人を作るのは、やはり環境だろう。
17歳というまだまだ子供とも大人ともつかぬ人間をここまでタフに鍛えたのは、戦争という時代背景があったからこそだろう。それが果たしていいことなのかどうか、僕にはわからない。
ただ、僕は断言するけど、こういう人は、人生でちょっとぐらい辛いことがあったとしても、絶対に自殺なんかしない。命がいかに重いか、平和がいかに尊いか、我が身で以て知っている人だから。
一方、この国では毎年2、3万人の自殺者がいる。やっぱり戦後生まれの僕らは、ひよっこなんだよなぁ。

最後に、一番響いた言葉。
「人として生きたなら、その証を残さなければなりません。それは大きくなくてもいい。小さくても、精一杯生きた証を残して欲しい。
戦友たちは若くして戦艦大和と運命をともにしましたが、いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆を与え続けています。
復員後、長く私の中に渦巻いていた『生き残ってしまった』という罪悪感。
それはいま、使命感へと変わりました。私の一生は私だけの人生ではなく、生きたくても生きられなかった戦友たちの人生でもあるのです。
君たちが漫然と生きている『今日』という日は、死んだ戦友たちが生きたくて仕方なかった『未来』なんです」

参考:八杉康夫『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』