電話で起こされた。
「施設職員から連絡で、利用者で息が止まっている人がいる、とのことです」
起き上がって時計を見ると、深夜3時。
死亡確認の依頼だからそれほど急ぐこともないのだが、すぐ身支度を始める。
看護師からカルテを受け取って、タクシーに乗り込んだ。

行き先の介護施設の名前を告げた。タクシーが動きだす。
座席に深く腰をかけ、大きなため息をついた。
眠気のモヤが、まぶたのあたりを覆っているようだ。
タクシーのなかではラジオの落語番組が流れていた。
演目はすぐにわかった。桂米朝の『天狗裁き』。昔同じ音源のCDを持っていて、何度も聞いたことがある。
でも、笑う気になれない。
頬を動かしてニヤリとする気にさえなれなかった。

眠気と、眠りを中断された不愉快と、笑わせようとする米朝と、誰かの死亡確認に向かう自分と。
深夜の都会を走るタクシーのなかで、自分という人間が、急にわからなくなる錯覚に陥った。「一体俺は、今どこにいて、どこに向かっているんだろう」

ものの数分で施設に到着した。
死亡確認にかかる時間は、それよりもっと短かった。
90代女性。いつものように眠りについた。深夜巡回していた職員が、呼吸が止まっていることに気付いた。
老衰。何の苦しみもなく、眠るように、あるいは眠りとともに、息を引き取った。
「3時27分。死亡を確認しました」厳かに宣言して、ご遺体に神妙に頭を下げた。

待たせていたタクシーに戻ると、まだ落語が続いていた。
話はいよいよ終盤、サゲに向けて、米朝が鞍馬の天狗を演じているところだった。
「女房が聞きたがり、隣家の男が聞きたがり、家主が聞きたがり、奉行さえ聞きたがったという、おぬしの夢の話。
そんなもの、この天狗にとっては、つまらぬ話よ。聞きとうもない。
聞きとうもないが、しかし、、、
そのほうがどうしてもしゃべりたい、というのなら、聞いてやらぬでもないぞ」
「いや、もう堪忍しとくなはれ!ワシ、ほんまに夢なんか見てやしまへん」
「天狗をあなどる気か!八つ裂きにしてくれる!」
「あー!助けてー!」
ふと、妻の呼ぶ声がする。「ねぇ、ちょっと、あんた。ねぇ、あんた、えらいうなされて。どんな夢みてたん?」

そう、人生は確かに、夢のようだ。
現実のなかで、夢のように現実感のない経験をすることもあれば、夢のなかで妙に現実感のある経験をすることもある。
現実と夢は、その境目に立って、対比を感じることでしか、違いを認識できないようだ。
しかし、夢か現実、その二択なのかな。
深夜眠気がくすぶる頭で、すでにこの世にいない米朝の落語を聞き、誰かの死亡を確認する、そういう自分が妙にシュールで、この経験自体、何かの夢なんじゃないかという気さえする。夢か現実か、ではなく、その中間にただよっていたような。
現実はそれほどソリッドでもなく、かつ、案外、夢もそんなにフワフワしてないような気がする。

『境界性人格障害患者では、夢と現実を混同しがちである』
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2015.01393/full
なんていう論文もあるが、夢と現実の混同は誰しも起こし得るものに違いない。
個人的には、夢と現実の境目に立つような不思議な感覚は、嫌いじゃない。
ただ、悪夢だけはごめんこうむりたい。
この世界には、医療が人助けどころか、むしろ人殺しになっているという、悪夢のような現実がある。起きても覚めない嫌な夢も、『天狗裁き』のように笑えるのならいいんだけど、現実の悪夢は笑えない。
僕はそういう医療に自分なりに抵抗しているんだけど、きちんと戦えているだろうか。ときどき、夢のなかでもがいているような、息苦しい無力感にとらわれるときがある。
そういうときには、落語でも聞いて、せめて笑いに紛らわせないと、やってられないんだな。