引退したプロ棋士の加藤一二三(ひふみん)が、こんなことを言っていた。
「十五年ほど前に入れ歯をした。すると、さっぱり手が読めなくなった。頭の回転が鈍り、棋士人生で最大の危機に陥った」

入れ歯をすれば、固いものもちゃんと噛めるようになる。咀嚼は消化の第一段階で、栄養吸収に必須の行為だ。
そういう実用性だけではなくて、審美的な意味でも、この人は入れ歯しといたほうがいいと思うのね^^;

でもこの人は単なる「歯の悪い老人」ではなく、まず何よりも、勝負師なんだな。
その勝負師の直感が告げていた。「こんなもん口に入れてたら、勝てる将棋も勝てなくなってしまう」と。
プロ棋士は盤上の局面から10手も20手も先を読む。普通の人にはマネのできない芸当で、そういうある種の特殊能力を持った人だけに、体調の変化にも極めて敏感なのだろう。

入れ歯をすれば脳の機能が低下するのだろうか。
調べてみたが、そういう論文は見当たらなかった。
むしろ逆に、入れ歯をすることで認知機能が改善した、という論文ならたくさんあった。
たとえばこんなの。
https://www.researchgate.net/publication/322680926_Effect_of_Complete_Denture_on_Memory_and_Depression_Status_in_Elderly_Patients
「総入れ歯の着用によって記憶力が向上したが、うつ病の改善には効果がなかった」という主旨。
咀嚼は、顔や顎の筋肉運動そのもので、脳の血流にも影響するだろう。また、しっかり咀嚼することで栄養の吸収も高まる。
その影響で、記憶力が向上したのではないかと推測できる。

残念ながら、ひふみんにはそういう恩恵がなかった。むしろ、入れ歯のせいで思考力がダメになってしまった。なぜだろう。
入れ歯が合わなかったせいかな。腕の悪い歯医者のせいだろうか。あれぐらいの有名人で経済的にも裕福な人だから、腕のいい歯医者にかかることはすぐできるはずなのにな。
しかし、ひふみん含め芸術家タイプの人は、入れ歯を忌避することが多いようだ。
ひふみんはこんなことを言っている。
「あるバイオリニストの体験記に“義歯を入れたら演奏ができなくなったので取ってもらった”と書いてあったので、自分も前歯を取ってもらったら、調子が戻った」
実際、こんな論文がある。
『音楽家が経験する口腔顔面の特異的問題』
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/pdf/10.1111/j.1834-7819.2002.tb00296.x
結論部分に、こうある。
「プロの音楽家は歯医者に行くのをためらうことが多い。というのは、ほとんどの歯医者は、音楽家の特別な必要性に全然配慮していないからだ。
楽器が口腔顔面の構造にどのような影響を与えるかを理解し、かつ、音楽家にはどのような特有の問題があるかに気付いている歯科医であれば、予防のためのアドバイスや有益な治療が提供できる」
たとえばバイオリンは顎や首で固定して演奏するわけだから、歯科治療に際してもそういう職業上の特質が考慮されるべきだけど、普通の歯医者に行っても、そんなこと、当然気を遣ってくれない。
楽器の奏でる音が、顎や首の骨を伝って、耳に届く。そのプロセスで、入れ歯という人工物があると、微妙に感覚の狂いが生じるのかもしれない。
芸術家は、自分の健康よりも優先することがある。自分の作品の美しさだ。
入れ歯のせいで自分の理想の演奏ができないとなれば、芸術家にとってこんなに悲しいことはない。
ひふみんもそういう意味では芸術家なんだと思う。
プロ棋士の棋譜は後世に残る。無様な棋譜をさらすくらいなら、入れ歯なんていらない、ということだろう。

プロ棋士は、対局中にお菓子を食べることが多い。
特にひふみんの甘いもの好きは有名で、ある対局の際、板チョコを8枚も食べたことがあるという。
入れ歯よりも何よりも、まずは甘いものを控えるのが第一だと思うんだけど、そんな不摂生をしながらも(そして歯がボロボロになりながらも)無茶苦茶に勝負強いところがこの人の魅力なんだな。
ここまで突き抜けた天才には、僕も何も言いません^^;