高校で化学を選択した人なら、ポーリングの電気陰性度、というのを習ったはずだ。
高校生が習う基礎化学にさえその名前が登場するくらいだから、彼の業績の偉大さがわかるだろう。

ポーリングは極めて明晰な頭脳の持ち主だったが、それだけの人物ではない。
彼は、本気で世界平和を願う『愛の人』でもあった。
オッペンハイマーが、ポーリングに原爆研究の化学部門のトップとして参加するよう呼びかけた。国家機密の研究に招聘されるというのは超一流の科学者の証で、この上なく名誉なことであるはずだが、平和主義者の彼はこの招聘をきっぱり辞退した。
とはいえ、戦時中のことである。こんな優秀な天才化学者を、軍部が放っておいてくれるわけがない。
軍の研究施設で勤めることを余儀なくされたが、「せめて人を殺すのではなく、人を治療する仕事がしたい」と彼は思った。
兵士が大量出血したときに、都合よく輸血できるとは限らない。そこで彼は、oxypolygelatinという代替血液を開発した。
これは画期的な仕事だったが、完成されたのがすでに戦争末期、アメリカの勝利がほぼ確定的になっていたときであったため、現場で実用化されることはなかった。戦後には赤十字社が輸血の供給体制を整えたため(また、赤十字社の利益に大打撃となる発明であったため)、oxypolygelatinはついに歴史の闇に埋もれることになった。
さらに彼は、ヘモグロビンについての研究に取り組み、ヘモグロビンの磁性によって空気中の酸素レベルを計測する機械を開発した。この酸素メーターは軍に採用され、戦闘機や潜水艦に欠かせないものとなった。
広島と長崎に原爆が投下されたニュースを聞いて、彼は胸を痛めた。「本来人の幸福に貢献するべき科学が、一般市民の大量殺戮に使われてしまった。もう二度と、核兵器が人を殺すことがあってはならない」という思いで核実験反対運動を展開し、その功績からノーベル平和賞を授与された。

軍に化学部隊があるように、化学は使い方次第では、人を殺傷する兵器を生み出すことができる。しかし化学者ポーリングの仕事は、人を殺すことではなく、生かすことに向けられている。
この背景には、彼の若い頃の経験が影響を及ぼしているようだ。
ライナス・ポーリングは1901年、オレゴン州で生まれた。オレゴンといえば多くのアメリカ人は田舎をイメージするが、ポーリングはそのなかでもとびっきりど田舎のコンドンという村で生まれ育った。少年時代の彼は、豊かな自然のなかで、昆虫採集やきれいな石を集めることに熱中した。
父のハーマン・ポーリングは薬剤師で、幼いライナス少年は父が薬局で薬を調合する様を身近にいつも見ていた。この環境が、彼に化学の素地を与えることになった。
しかし、この父はライナスが10歳のときに亡くなった。
一方、ライナスの母ルーシー・ポーリングは心身ともにいつも病弱で、うつ病で無気力に陥っているか、そうでなければ疲労感で伏せっていた。母は持病の悪性貧血(ビタミンB12の欠乏による貧血)が次第に進行し、最終的には精神がすっかり荒廃して、ポーリングが25歳のとき、ついに死去した。
若くして亡くなった父から受け継いだ化学への興味と、常に病床に横たわる母の姿は、少年の心に深い印象を残した。

1931年から1933年にかけて、ポーリングは化学結合の性質に関する一連の7本の論文を発表した。なぜ元素や化合物が特定の三次元構造をとるのか、そのメカニズムを電子の相互作用から説明するものだった。原子軌道の混成の概念を初めて打ち出すなど、量子化学による発想は、従来の化学の地平を開くのみならず、物理学、数学、生物学、医学の融合を促すもので、極めて斬新だった。
自らの考案したこの化学モデルを使って、ポーリングはその後も様々な業績をあげた。たとえば、タンパク質の構造解析に取り組み、αヘリックス、βヘリックス、γヘリックスなどの形態を解明した。

ポーリングが特に興味を持ったタンパク質は、ヘモグロビンである。鉄を含むヘムタンパクと、グロビンを詳細に研究することで、ヘモグロビンと同等の働きをする人工血液oxypolygelatinの開発に成功したことは上記の通りであるが、ポーリングの成果はそれだけではない。鎌状赤血球(黒人に多い遺伝性血液疾患。赤血球は通常円盤状だが、この患者では三日月型で酸素運搬能が低下しており、貧血を呈する)による貧血が、ヘモグロビン分子の形態異常に起因することを初めて突き止めた。健常者では二つの優性アレルを持つところ、鎌状赤血球貧血患者では二つの劣性アレルを持つことを示した。
ポーリングは、このように分子の形態異常による疾患を『分子病』と呼び、新たな疾患概念として提唱した。

参考
How to Live Longer and Feel Better (Linus Pauling著)