須磨学、といえば40歳以上の世代にとっては、女子校で、かつ、勉強にそんなに力を入れてない学校、というイメージだろう。少なくとも僕はそうだった。
20年前は定員割れの「誰でも入れる学校」だった。
生徒は無気力で、ただ「親に高校に行けと言われてるから、通っている」といった様子だった。
卒業生は出身校を名乗ることを恥じた。「勉強のできない子が行くところだな」と神戸に住む人ならすぐわかったし、生徒自身、その通りだと思っていた。母校に誇りなんて、持ちようがなかった。
「ここは勉強を頑張ろうと思っている子が来る学校じゃない。そういう子は、もっと優秀な学校に行く」と思っていたのは生徒ばかりではなく、教師の側も同じだった。生徒の無気力が教師にも伝染し、そういう無気力が長年続いた結果、センター試験の問題さえ解けない教師もいた。

「このままではいけない」と立ち上がった人がいた。須磨学園の理事長である。
共学化し、中高一貫校にするなど、次々と教育改革に取り組んだ。教育の質を高めるため、教師の意識改革も行なった。
徐々に、かつ、着実に、その成果が出始めた。
改革から20年が経った今年度、東大に4人、京大に24人、医学科に56人を送り込んだ。
昔のことを思うと信じられないほどの進学実績で、教育改革は大成功したと言えるだろう。
その須磨学園が行っている取り組みのひとつに、制携帯(制スマホ)がある。
制服が学校から支給されるように、スマホを学校から支給するという、全国でも珍しい取り組みだ。

林修先生が何かの番組で言っていた。
「いつの時代にも、できる生徒、できない生徒がいたものだが、ネット以前と以後で、あるいはスマホ以前と以後で、中高生の学力はどのように変化したか。
上位層はますます伸びている。逆に、下位層は相変わらず下位のまま」
それはそうだろうなと思う。
ネット上にはよくできたサイトがたくさんあって、知識や情報が見事に整理されている。YouTubeにわかりやすい動画がアップされてて存分に自学自習できるし、わからないことがあれば掲示板に書き込んで質問すればいい。
できる生徒は、ネットという武器を上手に使いこなして、ますます伸びるだろう。
20年前のトップレベルの受験生と今のトップレベルの受験生、両者の学力を比べれば、前者は後者にかなわない。
それは前者が後者よりバカだ、ということではない。ネットの登場によって知識の整理が進んだことや、学習の方法や能率が洗練されたことによるものだ。
一方、できない生徒は、ネットがあろうがなかろうが大して関係ない。というか、ゲームにハマったり、よからぬサイトでよからぬことをしたり、ネットがもたらす負の側面をモロに受けてしまうのが、下位層の生徒なんじゃないかと思う。

だから、須磨学園が生徒に制スマホを支給することは、かなりの冒険に違いない。
スマホを勉強にうまく使えば、これほど心強い味方はない。しかし情報の泥沼に足を取られてしまう生徒にとっては、有害無益ということにもなりかねない。
制スマホの支給は、生徒の性善説を信じての判断ということだろう。

子供の頃、わからないことがあれば父に質問していた。父が答えに窮するような質問だと、「辞書ひき」とか「辞典調べり」って言われたものだ。
辞書や辞典を調べてもわからないことも多々あって、わからないことをずっと胸にしまっておく、なんていうことがあったものだ。しかし今や、そういうことはなくなった。
その場で検索すればいい。すぐに答えが出てくる。
知識のあり方が、根底から変わったと思う。

「映画でたまたま耳にした音楽が、すごくよかった。でも、曲名がわからない」
昔なら、それまで、だった。その曲名は、もう一生わからない。でも今は違う。その映画のタイトルで検索すれば、使われていた音楽もすぐわかるし、曲の動画もあるかもしれない。
「寿司屋の大将がウンチクをたれている。本当かな」
昔なら、大将の言うがままだった。でも今は違う。検索すれば、大将の言ってることが間違いだとわかる。いちいち指摘するのも野暮だから黙って聞いてるけどね。
「将棋のある局面の最善手。複雑で、どれだけ考えてもわからない」
昔なら、プロの答えこそが真理だった。でも今は違う。名人さえソフトの前に膝を屈した。局面の最善手を知るには、スマホのアプリでチェックすればいい。

スマホが、父も寿司屋の大将もプロ棋士も全部まとめて、ハリボテにしてしまったようだ。
こういう流れは今後もますます進むだろう。もはや知の権威は、人ではなくAIが握る時代なんだ。
何だかさびしくもあるな。
そう、スマホのおかげで情報伝達の能率は飛躍的に進歩した。でも僕ら、それで大満足かっていうと、そうじゃない。こういう状況は、何だかさびしいんだ。
「どれだけAIが進歩しても、ひとつ絶対になくならない仕事がある。それは、人に謝る仕事だ」という記事をどこかで読んだことがある。
これはすごくわかる気がする。AIに謝られたって、僕らの気持ちは晴れない。
人間の表情を精巧に真似たロボットが、人間心理を徹底的にプログラムされて最上級の謝罪の言葉を述べたとしても、僕らは「謝罪しているのがAIである」という理由だけで、絶対に納得できないだろう。「まぁええからとりあえず生身の人間呼んでこい。話はそれからだ」となるはずだ。
そう、人間って妙なもので、正確なネット情報が得られる環境にありながら、たとえデタラメであっても寿司屋の大将のウンチクに魅力を感じたりするんよねぇ。