「最近、人に感謝したようなこと、ありがとうって誰かに言ったこと、ないですか」
「うーん、あると思うけど、そんな急に言われても思いつかへんな。なんで?」
「私、歯科助手として働いてるんですけど、院長がそういう『ありがとう』的なことが大好きで、毎日その日の担当者が『ありがとうエピソード』を書いて、みんなの前で発表しないといけないんです。
明日、私の番なので、それでどうしようかなって困ってます」
「テキトーに話作ったら?電車の中でおばあちゃんに席を譲ったら、ありがとうって感謝された、とか」
「あ、それ、いいですね。その話、いただきます笑
うちのクリニック、院長の他にも二人の勤務医の先生と、歯科衛生士、事務員がいるんだけど、みんなで、この『ありがとうエピソード』の発表会を持ち回りでやらされてて、うんざりしてます。
それで、勤務医の先生なんて、発表するネタに困って(あるいは院長のバカバカしい趣味に付き合わされるのにうんざりして)、事務員に『ありがとうエピソード』の代筆を頼んだりしてます。
院長、人間的にはいい人なんだけど、こういう『ありがとう』の強制は勘弁してほしいなって思います」

『ありがとう』の強制。言葉の組み合わせとして新鮮で、おもしろいと思った。
感謝が胸からにじみ出て、それを何とか相手に伝えたい。その思いが言葉としての形をとって口から出るのが、「ありがとう」の本来の姿であるべきだろう。
半ば強制的に絞り出させる「ありがとう」に、いったいどれほどの意味があるのか。

この話を聞いたときに思い出したこと。
どこかの国が延々『謝罪と賠償』を日本に求めているけど、こういうニュースを聞いて僕は素朴に思うんだけど、その国の人はそんなふうに人を無理やり謝らせたとして、本当にうれしいのかな。
「すまなかった。謝って済む問題ではないかもしれないが、ぜひとも謝らせてほしい」という形で、自発的に、心の内側から自然とにじみ出た申し訳なさでないと、謝罪として意味がないと思うんだけど、お国柄の違いかな。
心を伴わない形だけの謝罪だとしたら、そんな謝罪はかえって不愉快だというのが一般的な感覚だと思う。

「ありがとう」などきれいな言葉をかけた水からは美しい結晶ができ、「ばかやろう」などの汚い言葉をかけた水からは醜く潰れた結晶ができる、という話が一時話題になった。
非科学的だ、と批判されることが多いけど、基本的にはいい話だと思う。
僕ら人間の体は6割がた水でできている。いい言葉を聞いた水には美しい結晶ができるのなら、いい言葉を聞いた僕ら人間にも、きっとプラスの作用がありそうだ。
言葉を大切にするべきだ、というのは教育として間違っていないと思うし、自分の経験を振り返っても、人の悪口とか人を罵倒するような汚い言葉を言ったときには、自分自身にもその毒っ気が当たっているように感じる。
でも、人間の複雑なところは、一見いい言葉のように思えるけど実はトゲのある言葉とか、一見ひどい言葉のように思えるけどすごくあたたかみのある言葉とか、単純にいい悪いで割り切れない言葉のほうがむしろ多いところだ。
僕の母はよく「アホやなぁ」と言った。
5歳のときだったか、幼稚園の帰りに、おしっこを漏らして家に帰ったことがある。トイレに行けばよかったのに、あるいはそれが無理なら、男の子なんだからそこらへんの原っぱで済ませてしまえばよかったのに、どういう事情だったのか、パンツの中でそのまま漏らしてしまったのだった。
家に帰った僕は、母の前で涙流した。屈辱の涙か、羞恥の涙か、よくわからない。そういう僕を見て、母は「アホやなぁ」と言って僕の頭をなでた。

この「アホやなぁ」を水はどう判断するのだろう。
汚い言葉として、醜い結晶を作るのだろうか。
故人を思うときにいつも頭の中で再生される言葉は、ほほえみながら言う、この「アホやなぁ」なんよ。個人的にはこれほど胸があたたかくなる言葉って他にないんやけどね。
言葉の使われ方や内容を度外視して、「この言葉はオッケー、この言葉はダメ」ってさ、言葉狩りと一緒だね。
状況によって「ありがとう」が刃物になって突き刺さることもあるし、「ばかやろう」が何とも言えないなぐさめを与えてくれたりもする。
そういう複雑さこそが、言葉のおもしろさだと思うんだけど、一方で、こういうあやふやさを煩わしく思う人の気持ちも分かる。
だから、「ありがとう」=いい言葉、と公式化するのは個人の自由だと思うんだけど、それを部下や職員に強制までし始めたら、「ありがとう」教という宗教みたいで、何か危ういね。