嘘がまかり通っているのは、内科や精神科ばかりではない。整形外科も同じようだ。
長らく市中病院で整形外科医をしておられた坂井学先生は、西洋医学の矛盾に気付いた。
膝や腰が痛い、と整形外科を受診する患者。MRIを撮れば、何の異常がないことも多い。
逆に、軟骨が磨滅してほとんどないのに、痛みもなしに普通に暮らしている人もいる。MRI所見では神経が圧迫されているはずなのに、普通にスポーツをしている人もいる。
一体、どういうことだろう?
この矛盾は、しかし坂井先生だけが気付いているのではない。
整形外科医なら、ほとんど全員がこの事実に気付いている。ただ、誰も深く追求しないだけである。

先生は、ある治療手技との出会いから、『かたち』よりも『はたらき』なのだ、と気付き、さらに、『エネルギーの流れ』の重要性を認識し、この知見を実臨床に生かすようになった。
具体的には、たとえば、「温める」ことである。
このあたりは、坂井先生の著書『「体を温める」とすべての痛みが消える―腰痛、ひざ痛、股関節痛、間欠性跛行が治った!』(坂井学 著)を参考にして頂きたい。

先生は、西洋医学の矛盾に次第に耐えがたくなり、あるときついに、安定した勤務医の身分を捨てて開業を決意した。
その思いについて、このように語っている。
「私はただ、詐欺を仕事にしたくありませんでした。
MRI所見と実際の症状が矛盾すること、つまり、『かたち』の異常と症状が全然相関しない患者がしょっちゅういることは、ほとんどの整形外科医が気付いています。
そう、整形外科の診断や治療は明らかに矛盾しているんです。ある一定の『かたち』の異常に対して、痛みは千差万別です。
診断がデタラメなのだから、その診断にもとづいて行われる治療も的外れになって当然です。
繰り返しますが、ほとんどの整形外科医がこの矛盾に気付いています。
気付いていてなお、彼らが堂々とガイドライン通りの整形外科診療を続けられるのは、一体どういうことでしょうか。
答えはひとつ、本音と建前の使い分け、です。
本当は分かっているんです。心の中で「軟骨のすり減りが痛みの原因ではないのにな」と思いながらも、「軟骨がすり減っているので、痛いのですよ」と患者に説明します。
「神経の圧迫が痛みの原因ではないのに」と思いながら、「手術して圧迫を取り除きましょうね」などと患者に言っています。
整形外科学会の公式見解が「症状は『かたち』の異常に起因する」と教えていますから、それに盾突くことなんて、よほどの勇気がないとできないんです。
これが詐欺でなくて何ですか?
私は、こんな茶番を一生の仕事にしたくなかった。それで思い立って、整形外科をやめました。30年前のことです。
振り返ってみて、この決断は正しかったと、その確信は深まっています。
症状の原因を、『かたち』から『はたらき』に求める研究は、次第に明確になっています」

ちょっと僕なりのアレンジが入っているので、先生の直接の声に興味がある人はご著書に当たってください。
坂井先生のこの独白を読んで、「科が違えども、同じような悩みを抱え、独立に至った医者がいるのだな」と共感を覚えたし、また同時に、自分の勤務医時代を思い出して、何だか胸がせつないような、苦しいような気持ちになった。
精神科に勤務していた頃、治るはずのない、毒みたいな薬を処方することが心苦しくて仕方なかった。
現場の同僚のなかには、「気付いている」人もいた。でも彼らは、僕のように悩んでいるようには見えなかった。平然と、こんなふうに言う。
「精神科的投薬で精神症状が寛解する人はいるだろう。しかしそれは治癒ではない。だって、薬をやめれば、症状が再燃することは明らかだから」
「それってさ、原因にアプローチしていないから、だよね。薬で症状を抑えているだけなわけで。そういうのって、そもそも治療なのかな」
「知らんよそんなん。『こういうときにはこういう薬を使え』って指導医から習ったんだから。それだけのことだよ」
あまり突っ込んでも角が立つので、これ以上は聞けない。
「そんな仕事、むなしくない?」と聞いたところで、「お前も同じ仕事してるじゃないか」と返されるのがオチだろう。

独立した今なら、もう少し強気に問い質すこともできるだろう。でも、僕もいささか丸くなった。
そういう、「気付いていながら、ガイドライン通りの治療を淡々と続けている医者」も、それはそれで、世の中には必要なのかもな、と思うようになった。
「病気の真の原因とか、食事の改善とか、そういうややこしい話はいいから、手っ取り早くデパスをくれ、ロキソニンをくれ」という患者が確かにいて、そういう声をくみ取る医者も必要なんだ。
それに、すべての医者が医療の闇(ロックフェラーの意向、製薬利権など)に敢然と立ち向かう!となっても、何だか暑苦しいものな^^;
僕のようなスタイルの医療を必要としている人がいて、そういう人のために、そっと助けの手を差し伸べられる。それで充分かな、という気がしている。